映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

想像で空は飛べるのか(『唐版 風の又三郎』)

織部:「君はもしかしたら、風の又三郎さんじゃありませんか?」

少年(エリカ):「君はだあれ?」

織部:「僕は読者です」

 (『唐版 風の又三郎』(「唐十郎Ⅰ」,ハヤカワ演劇文庫,p.102)

 

 

いつからだろう。舞台を観ていると淋しくて淋しくて、泣きじゃくりそうになるようになったのは。

舞台の向こう側、宇野亞喜良の美術によるカタツムリがゆっくりと蠢き、電話ボックスが輝き、空には月が2つ(もしかしたらオペラグラスで2つに見えていただけ?)。六平直政演じる禍々しく卑猥な〝乱腐〟たちが歌い踊る、あの素晴らしい世界にはどうにも手が届かない。

目の前にあるというのに!

 

まあ、エモーショナルな叫びはこの辺にして、この乱腐という男がまた曲者だ。頭上の剥き出しの、女のソレにも見えるものは、卑猥さと神々しさを併せ持つ。世にも美しい花嫁やカタツムリの妖精が着飾って目の前を通り過ぎたとして、乱腐という男がそこにいる限り、その本質が見え隠れする。人間というのはそもそもがヘンな生き物なのだ。常に何かを隠し、偽り、着飾って生きている。

 

男と女、清純と卑猥、幻想と現実。それをごちゃまぜにしたような世界が、この『唐版 風の又三郎』が描く世界、つまりは誰よりも誠実で純粋な少年・織部の脳内だ。そしてこの物語は、人間というものが蠢くこの世界の、誰もが目をそらし続けている本質を白日の下に晒そうとでもしているのではないか。

 

しかししかし、どうにも唐十郎の畳み掛けるような凄まじい言葉の連なりを浴びていると、完璧な大根役者であるというのに、その言葉はグサグサと私の身体を貫き、感情に任せて叫んでみたい!歌ってみたい!となってしまうから不思議なものだ。

 

それでもこちらは2階の立見席、劇場の片隅に立って、手すりを握りしめ立ち尽くしているしかないのだ。幕が降り、役者たちを見つめながらただただ必死で手を叩き続けるだけ。

 

そんな私に、窪田正孝演じる織部が同化する。岩波文庫版『風の又三郎』を持ち歩く無邪気な少年。本当は月夜の晩に精神病院を抜け出した患者。

「ぼくにはヒコーキの代わりに、こんな薄汚いスリッパしかなかった」(「唐十郎Ⅰ」,ハヤカワ演劇文庫,p.306)

 

柚希礼音演じる又三郎(エリカ)は、冒頭、自由に空を飛ぶ。だが、織部は、どんなに憧れてもスリッパで空を飛ぶ事はできない。だから、羨望の目で彼(彼女)を見上げている。そして言うのだ。

「僕は読者です。(中略)だめですねえ、岩波文庫の十頁にこう書いているじゃありませんか」(同書,p.106)

ああ、彼は私だ。飛べない、私。本の虫で、今は観客の。

そしてきっと、彼は、悠々と空を飛ぶ柚希・又三郎を見つめている観客1人1人だ。

私たちは、スリッパを握り締める読者なのだ。

 

ここで対比できるのは、本を読むことで辛い現実から想像の世界へとつかの間逃げ込むことで生きながらえてきたのだろう織部と、想像の世界の中さえも自由自在に飛びまわって、その世界自体の常識をも、物語そのもの、主人公そのものさえも変えてしまうエリカ(又三郎)の違いだ。いわば観客と、創作する側の決定的な違い。

 

だが、彼女もまた「風の又三郎」という偶像、男たちのミューズ、レコードから流れる懐かしの音楽「エリカの花」のエリカ、つまりはスターという“型”に押し込められた窮屈な存在であるということは、心に留めておくべきことだろう。いわゆる「過去」「古典」というものに押し込められかねない存在であり、エリカの行動は、そこからの離脱願望にもとれる。それはもしかしたら、柚希礼音という元宝塚トップスターである俳優自身を重ねることができるのかもしれない。

 

そんな彼女こと風の又三郎は大胆にも、「ズボンを脱いでシュミーズをちらつかせ(同書,p.194)」る。岩波文庫の十頁の人は女となり歌い踊り、愛する男の肉を食べ、その血を自分の体内に流し込む。男たちの偶像から愛する人の血の通った熱い血潮の女へと変わる。

彼女を前にすると、この物語の男たちは本当に、ただの陳腐で真面目な人間に過ぎない。幻想の”腐った”世界をせめて正しく全うにルールを守って生きようとしているだけ。風間杜夫演じる教授や、六平演じる乱腐たち、そして北村有起哉演じる、エリカに恋焦がれる夜の男もまた。

 

可哀想な織部は、自分の作り上げた想像の世界の住民「風の又三郎」にあっさりと裏切られ、それでも?それだから?彼(彼女)のために全てを捧げようとする。シュミーズの又三郎は、宮沢賢治シェイクスピアも怖くないとばかりに彼の世界のあらゆる物語を壊し、改変していっているのに、彼は彼女を愛してしまう。彼女に捧げた織部の血はどくどくと流れていく。彼の肉体は次第にボロボロになり、身を削れば削るほどなぜかその瞳は活き活きと輝く。死が近づけば近づくほど、その瞳は生気を帯びていく。

それはそうと、ボロボロになっていく窪田正孝というのは、どうしてこうも色気があるのだろう。。

「手を払われ、ここに立って、赤いこの耳をおっ立たせている僕はあんたの何なんです?」(同書,p.194)

 

夢の世界は崩壊し、終幕は近づき、私たちが現実の世界に戻る時間はもうすぐ。現実的には、織部に待ち受けるのは失血死でしかない。

 

それでも彼はエリカのために「又三郎と読者」という偽りの関係性を再び語り、彼女もまたその「ごっこ遊び」に便乗することによって、彼らは架空の翼を手に入れる。現実の世界は幻想の世界に変わり、その世界において、二人は自由を手に入れ、歌いながら飛躍するのである。

 

現実に勝つためには夢を見るしかない。夢を見ることしかできない読者ができることは、スリッパしか持ち合わせていない患者がせめてできることは・・・・。

そんなことを思いながらフラフラと外に出たのだった。

 

 

『唐版 風の又三郎』Bunkamuraシアターコクーン/2019年2月公演にて

 

 

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