死神のようなバクと、確かなものなどない、この世界の話(『寝ても覚めても』)
「俺の代わりはちゃんといるから大丈夫」
麦(バク)はそういった。突然現われ、消え、しばらくしてまた現われ、唐田えりか演じるヒロイン・朝子をかっさらっていく彼は、まるで宇宙人のようだった。黒沢清監督のドラマ『予兆』でそれこそ地球人ではない”侵略者”を演じていた東出昌大は、あの佇まいのせいか、本当に宇宙人がよく似合う。
これは本当に恋愛映画なのだろうか。恋愛映画として観ると、それはあまりにも無機質で、違和感ばかりが生まれていく(それがワカモノの恋愛というのなら、私がわからないだけかもしれないが)。だが、あえて唐田えりかと東出昌大といういろんな意味で”透明感”(何色にも染まる系)のある俳優であるところの2人がキャスティングされていることからも、ここではあえて身体性の欠如に関する物事をひとまず除外して考える。
確かなものなどなにもない、いいようにも悪いようにも、簡単にコロコロ変わってしまう世界の中で、せめてちゃんと立っていることができたら。
この映画は、そんな救いのような、願いのような映画なのだと思う。
麦は何者なんだろう。
前述した台詞通りの「俺の代わり」。それは俳優になった麦の芸能界での代わりという言葉通りの意味であると共に、朝子にとっての彼の代わり、彼の代用品として現われたのが、彼と瓜二つの顔を持つ男、関西弁の平凡な会社員、丸子亮平だったことも暗示している。
だが、その代用品が確かな存在に変わることもある。震災という、確かだったはずのものが全て崩れてしまう、不条理な悲劇をただ受け入れるしかない自らの無力さに震えるしかなかった、未曾有の出来事に遭遇したことによって。
確かではなくなってしまった世界に遭遇した彼女は、目の前で真っ直ぐに彼女を見つめる、「誰かに似た人」ではない、丸尾亮平という人を、確かに、愛した。
また、こうとも言える。麦は、突然出現し、風のように姿を消し、彼女が望むことによってまた現われる宇宙人。
それはまるで、朝子を”死”へと誘う、死神だ。
伊藤沙莉が初めて会った時から異常に警戒し、朝子から麦をなるだけ遠ざけることからわかるように。
朝子は2度、彼を手招きする。
1度目は俳優になった麦を乗せた車に向かって、「バイバーイ」と叫び手を大きく振る。
2度目は、幻想の彼が、引越し準備をしている朝子の家のチャイムを鳴らす直前。彼女は何気なく猫を抱き上げ、その前足を持ち、手を振る仕草をさせる。
それを合図に、麦は「だって、朝ちゃんが呼んだんだよ」と言いながら現われるのだ。奇妙なことに、彼女は、お別れの仕草をすることで、”それ”を招き入れてしまったのである。
「なんで今なん?」と言いながらも、麦と同じく白い服を着た朝子は無抵抗に彼の手をとり、夢遊病者のように、スマホという、彼女の今までの交友関係を繋ぐ手段を捨て、北のほうへと、高い堤防によって見えない海に向かって、麦と共に疾走する。
今が夢なのか、亮平と一緒にいた今までが夢だったのか。
麦は見なかった堤防の向こうの海を1人で眺める朝子の表情は、青白く、険しい。
この映画は、直接的には描かれていない”死”の予兆、”死”の雰囲気で溢れている。
2人の逃避行が、生の世界を捨てた朝子が死の世界へ向かっているかのように見えることだけでなく。
震災。
そして、ラジオは同じように流れていて、田中美佐子は同じように青春時代の話を繰り返しているのに、優しそうな笑顔だけをそのままに、変わり果てた姿で横たわっている渡辺大知。
少しの月日が経っただけなのに、
同じ顔だけど違う人、同じ場所だけど違う場所、同じ人だけど違う姿、違う名前。
こんなにも違う。
まるでパラレルワールドにいるかのような。
夢なら、あるいは夢じゃなかったら、どんなにいいか。
そんな不条理でアンバランスな世界の中で、
自分たちの気持ちだけは変わらない、 なんてことはない。
朝子は、ボランティアに行く理由を聞かれ、
「間違いではないことをしたかった、その時は」
と答える。
確かなことなどわからない。なにが正しくてなにが間違っているのかも。
何かがあれば瞬く間に彼らを家ごと飲み込んでしまいそうな”天の川”(天野川?)は、「汚いけどきれい」で、彼らは、そんな世界ごと愛すしかないのだ。何もかも確信することができない自分たち自身を含めて。
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