映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

『ナラタージュ』の足。

ナラタージュ』(行定勲監督)は「足」の映画である。

有村架純演じるヒロイン・泉の前には2人の男がいる。1人は松本潤演じる、彼女がいつまで経っても忘れられない、高校時代の担任教師・葉山。もう1人は、彼女のことが大好きな坂口健太郎演じる大学生の小野。葉山には別居中の妻がいて、わけあって空虚な人生を送っている。一方で、小野は未来ある学生。

どう考えても小野を選ぶ・・・と思いきや、小野を選ばず、常にボーッとしてはた迷惑な深夜コールまでしてくる元教師・葉山がやっぱり好きな泉。「彼には私が必要なの!」ってヤツである。で、そんな2人との恋模様は、靴を履くか履かないか問題で片付けられる。

 

ヒロインに手作りの靴を履かせたい男・小野との絡みで描かれるのは、靴から足を浮かせて爪先立ちのキスシーンなど、ひたすら靴を履きまくって、ピクニックしたり実家に行ったりする「平穏で幸せな人生を生きることができたかもしれない」彼女の姿だ。

 

一方の、彼女が恋焦がれてやまない高校教師・葉山との絡みで描かれるのは、あらゆる世間の常識から逸脱して立っている、裸足の彼女。浴室で男の髪を切ってやる場面における、女の持つ鋏の近くに、憔悴した男の顔があるショットは、ラブシーンへと続くこのシークェンスにおける女の主導権を見事に示し、その後の2人の裸足の足に絡んだ髪の毛のショットで、ベタにイヤラシクこの映画における「足」を強調する。

 

 さて、2人の男と1人の女を巡る靴を履くか履かないか問題の決着はいかに。小野をフって、葉山の元に向かおうとする泉に対し、小野はお手製の靴を脱いでいけとキレる。路地だというのに従順に「はい!」と頷いた泉は、靴を脱ぎ、戸惑う小野をそのままに、裸足で葉山のいる病院まで駆け抜けるのである。その裸足の泉の足を労わりながら目を輝かせる葉山・・・!つまりは完全に、恋愛という戦いにおける勝者と敗者の図であった。

 

 とはいえ、この映画において男はさほど問題ではない。彼らは、ただひたすらに女の情動に受身で居続ける偶像に過ぎない。

「靴を履くか履かないか問題」は、一人の女が自分の人生を可愛らしい靴の中に抑えこみ、平凡な人生を選ぶか、自分の思うままに自由に、靴も靴下も脱ぎ、社会の規範からも世間の常識からも逸脱した人生を選ぶかという選択の問題なのである。その果ては・・・。

作中の映画館で上映されている映画の一場面に閉じ込められた『浮雲』の高峰秀子の「私たちってどこにも行くところがないみたいね」という台詞が、妙に心にこびりついた。