映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

『町田くんの世界』の世界

朝、映画を観にいくために電車に乗る。

電車の向かい側で泥だらけの長靴を履いて足をいい感じに組んだ農夫がいかにも絵画のように佇んでいた。

その一席空けた隣に座った、仕事終わりのスナックのママとお姉ちゃんといった具合の、茶髪で露出高めの2人組。

濃いアイラインで縁取られた目の奥は、ちょっと優しげで、その先には、黄色い帽子の小さな子供たち。

窓の外を眺めていると、何の気なしに、走る電車に目をやった自転車の女子高生がいた。

「あの子の人生の物語の中のつかの間のワンショットに、電車ごと組み込まれたのだ」と私は少し嬉しくなる。嬉しくなると同時に、少しだけ、淋しくなるのだ。ここから見える家々の一つ一つに、女子高生に、電車の中の人々に、それぞれの人生の物語があるけれど、その全てを知ることができないというこの世界の果てしない大きさに。

 

とてつもない映画を見ると、共感したわけでも、悲しいわけでもなく、涙が止まらなくなる。もうひたすらに。ああ、私は映画を観るために、この窮屈で不器用な日常を生きているのだと気づかされる、瞬間。

 

それはきっと、世界を見るからなのだ。誰かの人生が、偶然誰かの人生に作用する、その奇跡を見る。偶然同じバスに乗っている、誰かと誰かの両方の世界を、両方の視野を体感することができるから。

 

夜空はいつでも最高密度の青色だ』で純粋で繊細な若者を演じた池松壮亮が、『町田くんの世界』で家族のために汚れちまったゴシップ誌記者になっていたのはいささかショッキングな出来事だったが、彼が偶然通勤バスで町田くんを目撃し、引き寄せられ、出会うことによって、何かに突き動かされていくように。

 

映画『町田くんの世界』は、そんな"世界”を見せてくれる映画だ。それはあまりにも優しくて、この「悪意に満ちた」世の中の救いだった。奇跡のような、何かだった。

普段映画を観ない誰かにも、自信を持ってオススメしたい、石井裕也監督が創る、本当の意味の「キラキラ映画」。そしてその「キラキラ映画」は、青春真っ盛りの誰かにというより、過ぎ去った青春を思う誰かに、必ず観てほしい映画なのである。

 

映画は、朝、町田くんがかなり度が強そうな眼鏡をかけ、彼の世界が鮮明になるところから始まる。ジャズのレコードと猫と、カモと波紋。わいわいガチャガチャとした子供たちの声、ゴッドマザー的な雰囲気を漂わせる松嶋菜々子。観客は、まず、彼の目と同化する。

 

これは、小さい頃井戸に落ちて一度死んで生き返り、今の人格が形成されたと言う町田くんが、もう一度(水に/恋に)落ちて、「新しい町田」になる話。

 

とても女子高生には見えない女子高生・前田敦子が、「だってここは高校だから」何も起こらないわけがないと言うように。どうにも女子高生・男子高生に見えない俳優陣が見え隠れするこの「高校」という場所において、主人公2人の恋というものはひたすらにキラキラと煌いている。

 

関水渚演じるヒロインが、モダモダモダと身体を揺すり続け、逡巡し続けるように。じっとしていられないのが青春で、もどかしいのが青春で。水に飛び込むのが、青春で。

 

聖人君子のような町田くん(細田佳央太)もそのうち感染したようにモダモダと動き始める。「どうしよう?好きって何?」と。

そんな町田くんを、たくさんの優しさの応酬が待ち構えている。

 

そしてそんなキラキラピュアピュアな彼らを眺め、憧れ、背中を押すだけで、結局は観ている側にいることしかできない前田敦子や太賀(仲野太賀)、高畑充希、岩田剛典といった大人になってしまった人たち(正しくは女優・男優たち)。

町田くんを応援する側の人たちの好演なくては、ここまで泣かされなかっただろう。彼らは他ならぬ私たち観客自身の姿だったから。

 

特に、徹底して「青春の目撃者」でありつづけた前田敦子の佇まいがよかった。「平成の目撃者」として、清濁飲み込まざるを得なかった男を演じていた池松壮亮と並んで。彼らはそれぞれの使命を帯びて、この映画の中に存在していたのだろう。

彼らの配置は、もちろん観客動員のためという大人の事情を無視するわけにはいかないが、新人を支えるという意味だけではなく、恋が始まっちゃって青春がものすごい速さで駆けていっちゃう「高校」という場所において、何もできなかった大半の人々をそこに存在させるためにあったのではないか。

 

大半の人が、町田くんのように生きられるわけではない。生きてきたわけではない。

簡単に空を飛ぶことはできない。そんなことわかっている。

 

でも。空を飛んでいる彼に、自らの夢を、過ぎ去った青春を、託さずにはいられないのである。