映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

海を駆けてきたのです(『海を駆ける』)

先日海を駆けてきた。

 

覚えていないだろうか。ドラマ『モンテ・クリスト伯』を観ている最中、CMでのつかの間の休憩中、突然流れる映画の宣伝に圧倒または当惑したことを。「真海さん(『モンテ・クリスト伯』での役名)がまたもなにやら海から漂着している!」そして彼は微笑む。「海を駆けてきた」と。

 

私はディーン・フジオカという人物が気になってしょうがない。朝ドラ『あさが来た』で突然我々の前に姿を表して以来ずっと。「肩書きは球体」、俳優もすれば歌まで歌う。

ドラマ『モンテ・クリスト伯』で、周りがこれでもかと激しい演技合戦を繰り広げる中、中心にいるはずの復讐鬼は、静かに俳優たちの科学反応を楽しんでいる傍観者であるかのように、どこか飄々と静かに存在していた。

 

そして、今回の深田晃司監督『海を駆ける』である。これもまた、とても奇妙な映画であり、その中心でディーン・フジオカは謎の人物「ラウ(海)」としてまたも静かに漂っていた。この映画はあくまで太賀と阿部純子、そしてインドネシアの若い男女の、「月がきれいですね」という夏目漱石の言葉を巡る2つの瑞々しい恋と青春の物語なのであるが、その物語の間を、超人的な能力で時に人を救い、時に唐突に人を死に至らしめる、海からやってきた謎の男・ラウが存在する。

 

ラウには2つの意味がある。1つは、インドネシア語で「ラウ」が「海」という意味であるように、彼自身が「海」そのものであることを示している。映画の冒頭は彼の漂着と、津波の予兆について語る人々のインタビューである。そして彼はまるで地面か何かのように「海を駆ける」人物だ。無邪気な子供のように事物を追いかける姿が想起させるのは、やはり宮崎駿の『崖の上のポニョ』におけるポニョだろう。自然は多くの恩恵を与えると共に、時に理不尽に人の生命を奪う。その不条理な死に人々は向き合っていかなければならない。ラウという超自然的な存在を前に、人々は何を思うのか。

 

そしてもう1つは、深田監督の映画の多くに見られる、謎の侵入者としてのラウである。『歓待』における古舘寛治、『淵に立つ』における浅野忠信、そして今回の『海を駆ける』におけるディーン・フジオカ。国籍もわからない、『淵に立つ』の場合は前科のある人物が、ある家庭の前に突然現れる。登場人物たちは不信に思いながらも、そのどこの誰かもわからない人物を受け入れる。不信な男は、不思議とその家庭に溶け込み始めるが、ある日突然事件は起こる。『海を駆ける』のディーン・フジオカが突然鶴田真由を死に至らしめるシークェンスの唐突さは、『淵に立つ』の赤い服を着た浅野忠信が突然古館寛治・筒井真理子夫婦の娘に手をかけるシークェンスの唐突さと同じように不可解だ。

そして観客は事件があった後、「ああやはり、彼を受け入れてはいけなかったのだ」と感じる。映画『海を駆ける』の台詞をそのまま引用すると「あいつは化け物だ」と。

その視点は私たち観客の中に根付いている、自分のテリトリーの外にある人物を不信に思う感情を自覚させる。登場人物たちと自分たちは同じだ。そのことに気づかされた時の居心地の悪さは映画を見終わった後にもしつこく我々に付き纏う。

 

最後に、この映画における重要なモチーフは「写真」である。この映画は、記者を目指すインドネシア人の女性が取材としてカメラを回すこと、彼女を助ける太賀が写真を撮り、現像すること、そして死者が撮り、娘・阿部純子に遺された一枚の写真が想起させる、過去における「撮る」という行為への追憶によって物語が動いている。

 

劇中の多くの登場人物が写真を撮るということに固執している。記者志望の女性は特ダネを得るために常にカメラを回し続ける。太賀は基本的に快活な若者役であるが、唯一阿部純子が写真を現像するための暗室に勝手に入ってきた時に声を荒げる。そして、阿部純子は、死んだ父親がかつて写真を撮った場所に固執している。

 

ラウによって海へと導かれた阿部純子の夢の中、トーチカ(戦時中の物見やぐら)の上から、死んだ父親は海の中にいる彼女に向けてカメラを構えている。その後、彼女自身が夢の中の父親のいた場所に行きつく。ラウに話しかけている彼女の傍には死んだ父親が佇んでいる。突如キャメラは高速で海に近づき、カメラのフレームが示しだされ、シャッター音がする。その場所は夢のシークェンスにおいて、阿部純子のいた場所である。

 キャメラの謎の俊敏な動きに観客の心を掴ませたまま、物語はつかの間、太賀の記者志望の女の子への告白と照れ隠しの海へのダイブという美しい青春を描いてみせる。だが、その次のシークェンスで、再び物語は不穏で謎に満ちた方向へ舵をきることになるのだ。海に飛び込んだ太賀が手をふる。その視線の先にいたのは父親の散骨を行おうとする阿部純子だ。彼女の視線はカメラとなり、高速で海の中の太賀に近づき捉え、再びシャッターはきられる。その「カメラ」、写真を撮るという行為の「現在進行形のものを一時停止させ過去にしてしまう」という性質、つまり生を突如死に変えてしまう性質は、この不思議な一連の流れを説明付ける何かであろう。

 

 さらにそこに挿入される奇妙な物語。ラウの奇妙な歌声が不吉に鳴り響き、口をぽっかりと開けた少年が立ち尽くし、滝が逆流して吸い込まれていく。海で合流した若者たちとラウの傍を、小さな棺を掲げた葬式行列が通りすぎる。

 

蝶を無邪気に追いかけているラウがその途中に“なんとなく”鶴田真由を殺してしまうわけだが、その前の予兆も興味深いものだった。トラックの荷台に乗って移動するラウと若者たちのシークェンスである。荷台から立ち上がり、川辺を歩いている鶴田真由に気づいた阿部純子は彼女の名前を何度も呼びかけ手を振る。でも鶴田真由は気付かないままだ。なぜかラウは荷台を降り、鶴田真由を追いかけるわけだが、その時観客は予感する。鶴田真由の身にこの後何か起こるのでなかろうかと。

なぜならそのシークェンスの構造は、以前に見覚えがあるからだ。漂着したラウを保護した人々は彼と共にトラックの荷台で移動する。その時はラウが、前述した阿部純子と同じように荷台から立ち上がり、彼は奇妙な歌声を披露し、その声に釣ったばかりの荷台の魚たちが反応し震動した。そして、前述した鶴田真由がいた場所、向こう岸には、こちらに向かって手を振る女性と子供の姿があった。その姿はその後忽然と消えてしまう。もしかしたら、それらは未来の死者たちであり、まだこの後起こることを知らない私たちへの何かしらの予兆、メッセージなのである。

 

海を駆ける』は、実に奇妙な映画だ。時間を歪め、過去と現在、生と死の境界を越え、何かを予感させる。