映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

2021年、『ライジング若冲』の正月

ライジン若冲』(NHK)を見た。

円山応挙伊藤若冲池大雅、そして若冲を支える相国寺の僧侶であり詩人、大典顕常。売茶翁の元に集う、江戸時代の芸術家たちの物語。

常にキラキラした目で世界を覗き見しているかのような、中川大志演じる岩次郎(後の円山応挙)が、私たち視聴者を、活気ある当時の京に案内してくれる序盤だけでグッと引き込まれた。さらに、NHKの優れた映像技術が魅せる、生命感溢れる動植物の姿に、何かに憑かれたようにニワトリの真似をして走る若冲を演じる、歌舞伎役者である中村七之助の身体が重なる時のあの迫力。全ての技術が凝縮され、スパークする瞬間。互いを信じ、一対の「白鳳」と「雁」のように求めあう、若冲と、永山瑛太演じる大典の、純粋で濃密な「友情」もまた、色気があって美しかった。

 

だがなにより、このドラマは、ここ以外のどこかに、行きたくとも行けない人の物語なのではないだろうか。

若冲の「蕪に双鶏図」を初めて見て、岩次郎や大典は、「想像で描いた絵空事」「こんな現実と空想ごちゃまぜになったもの知らん」と驚く。若冲は、鶴を描きたいけれど実物を見たことがないから本物を描けないと、鷺を見ながら悶々とする。売茶翁の引退式である「生前葬」の後、自分一人を残して、それぞれ旅に出ていく仲間たちを見送り、「私はここであんたとの約束、果たしながら待ってる」と大典に言うのもまた同様だ。

 

青物問屋の4代目として始まった、このドラマにおける伊藤若冲の人生は、冒頭「失踪中」から始まっているものの、常に一つところに留まる運命にあるのである。ただ、その場にとどまり続け、何日も飽きずに動植物を眺め、「神気」つまり躍動する魂を見出し、なおかつ、己の中の混沌として吐き出さずにはいられない「風神と雷神がいてはるみたい」な胸の内をも描きこもうとする。

 

大典もそうだ。僧として生きる道を選ぶしかなく、二足の草鞋を履く、いわば兼業作家になる道を選べない現状に苛立ち、その自分が得ることができないものの全てをいとも簡単に手にすることができそうな勢いを持つ若冲につかの間嫉妬する。彼の内面から、芸術家としての血がムクムクと湧き上がり、どうしようもなくなる。

 

本作において狂言回し役とも言える、応挙もまた、自分の闇夜を「煌々と照らしてくれる」人を探して旅に出るまでは、京の闇夜を提灯なしで彷徨っていた男だった。

 

コロナ禍において何度自分に問いかけたことだろう。「ここ」ではないどこかへ行くことのできない日々。旅もできない、舞台も観れない。それどころか、最近は映画館にも満足に行けていない。もどかしい。悔しい。このままでいいのかと思う時も多くある。

それでも、思う。

本物を自分の目で見ることができないことに苛立ちながらも、現実と空想ごちゃまぜにして、そこに宿る「神気」を抱き、誰もがその場から去って行っても、動植綵絵を無我夢中で描いていた、七之助若冲のように。

今、私には、ここ、田舎のアパートの一室、ポツンと置かれたこのテーブルの上、テレビの前にしかないのだ。

それならば。

見出せるだろうか、私には。作品の「神気」を。

そんなことを、思ったりした。