映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

ある日常と祝祭(「半世界」)

「なんか、映画みたいだな」

長谷川博己演じる瑛介は終盤、そう呟く。

葬儀場に降る、光に満ちた春の雨が、まるで人生を全うした故人に送る祝いの雨のように降りかかり、哀しみの場所はしみじみとした祝祭の場所に変わる。それと同じように、瑛介の台詞は、私たちの生きる、ありふれた日常に光をあてる。

 

この映画は、日常の愛おしさを丁寧に描く。

 

その中心で一際好演しているのが、稲垣吾郎演じる主人公・紘の妻・初乃を演じる池脇千鶴だ。彼女の登場において、キャメラはまず、黙々と伝票処理をしている彼女の手元を映す。製炭業を夫婦で営んできた彼女の日常が、年相応の、気取らない手に示しだされる。不思議と女優の手に見えないのは、最低限のメイクで臨んだという自然体の魅力ゆえか。

そしてその手は、隠れるようにそっと煙草を取り出す。だが、その秘めた一服は常時行われているものではなく、つかの間の休息のための特別な儀式なのだということが、一際たっぷりと味わう様子でよくわかる。何事にも無関心な夫と会話した後、夫の飲み残しの酒を、彼が部屋からいなくなった瞬間、耐え切れないように口に流し込むのもまた。彼女の抱えたストレスを慮る以上に、そうやって憂さを晴らす彼女の逞しさがなんとも好ましい。

 

寝る前、仏壇の明かりを消すために互いの身体をまたいでぶつかってもそのままに、とりとめのない会話を続け、そのままの流れで夜の営みに移行する(寸前で邪魔が入りはするが)。風呂上りのタオルを巻いた頭でミカンを食べる。「そんなめんどくさいことしない」と言いながら作る「バカ」の桜でんぶ文字付きの弁当には妻の愛情がたっぷり入っている。その何気ないけれど絶妙な描写は、夫婦がこれまで織り成してきた歴史と、これから続くのだろう未来の2人の姿を想像させ、渋川清彦演じる独り身の同級生・光彦ではないがやっかみ半分で叫びたくなるほどの、穏やかな優しさに満ちている。

 

愛おしい関係は、夫婦間だけではない。地元を生きる38歳の男たちの思い出話と下ネタ混じりのスナックでの会話。酔っ払い3人は海辺で1つの毛布に包まり、おしくらまんじゅうをしながら歌を歌う。だが、学生時代の頃と変わらないようにはしゃぐ彼らも、本当はそれぞれに葛藤がある。その胸の内を見せないようにバカ騒ぎをしようとする、どこか無理のある笑顔と、そのことに気づき、時折心配そうに見つめながらも、何も言わず一緒にはしゃぐ他の2人。

 

そして彼らの間を飄々と歩き回り、くだらないことをよくしゃべり、よく飲み、歌い、稀に、悩む登場人物たちにハッとする言葉を投げかける石橋蓮司演じる光彦の父、いわゆる田舎のおいちゃんの愛すべきキャラクターもまた、映画になくてはならない存在だ。

 

しかしその、最近の日本映画でしばらく見かけなかったような、どこか懐かしい日常の愛おしさを描いた良作で終わらないところが、阪本順治監督の凄さだろう。『団地』(2016)において、ただ、藤山直美はじめ面白すぎる名優たちに笑いがとまらない団地コメディだと思って観ていたら、思わぬところで宇宙まで飛ばされてしまうように。日常にふっと異質な人物が侵入したけれど、何が変わるわけでもないとタカをくくっていたら、突然、今まで見た事もない新しい世界が”くっ”と立ち現れる。

 

そして、彼らの日常に、非日常を持ち込む、元自衛隊員の同級生・瑛介(長谷川)。彼はずっと、スコップを持って何かを掘り起こそうとしている。何に囚われているのか。そこまで執着する必要があるものがそこに眠っているのか。

長谷川は、朝ドラ『まんぷく』の萬平さんですっかり平和な男になってしまったと思いきや、どこかで爆発しそうな危うさを持ってこちら側の”世界”に侵入してくる。まるで『KT』(2002)の、”日陰の存在”に勝手に押しやられた元自衛官佐藤浩市が持つ怒りとやるせなさをそのまま持ち込むように、稲垣演じる主人公含め、市井の人々の無関心を静かに責める。

後半のとあるシークェンスの彼の常軌を逸した表情と、それに近づくキャメラ、音楽の変容は、映画そのものが持つ空気感をガラリと変え、ザラリ、カラリとした独特の空気は、阪本映画ファンを沸き立たせると同時に、なんとなく観ていた観客の心を鷲づかみにすることだろう。

 

先日あるドキュメンタリー映画を観ていた時も思ったのだが、反対側の世界のことを、少しでも自分の身に置き換えて想像することができれば、この世界はもうちょっと生きやすいものになるのかもしれない。それでもそれがなかなかできないのが人間で、つい自分の世界の中だけでいっぱいいっぱいになってしまう。私自身も含めて。

 

一度掘り出された何かは、また同じ場所に埋められる。

「まだ続くんだから」人生は。この世界は。

 半分の月は変わらずそこにある。

瑛介の世界も、紘の世界も、紘の子供の世界も、そして観客である私たちの世界も。

 

変わらない日常は、本当は移ろいやすい。だから余計に愛おしいと思うのである。