死神のようなバクと、確かなものなどない、この世界の話(『寝ても覚めても』)
「俺の代わりはちゃんといるから大丈夫」
麦(バク)はそういった。突然現われ、消え、しばらくしてまた現われ、唐田えりか演じるヒロイン・朝子をかっさらっていく彼は、まるで宇宙人のようだった。黒沢清監督のドラマ『予兆』でそれこそ地球人ではない”侵略者”を演じていた東出昌大は、あの佇まいのせいか、本当に宇宙人がよく似合う。
これは本当に恋愛映画なのだろうか。恋愛映画として観ると、それはあまりにも無機質で、違和感ばかりが生まれていく(それがワカモノの恋愛というのなら、私がわからないだけかもしれないが)。だが、あえて唐田えりかと東出昌大といういろんな意味で”透明感”(何色にも染まる系)のある俳優であるところの2人がキャスティングされていることからも、ここではあえて身体性の欠如に関する物事をひとまず除外して考える。
確かなものなどなにもない、いいようにも悪いようにも、簡単にコロコロ変わってしまう世界の中で、せめてちゃんと立っていることができたら。
この映画は、そんな救いのような、願いのような映画なのだと思う。
麦は何者なんだろう。
前述した台詞通りの「俺の代わり」。それは俳優になった麦の芸能界での代わりという言葉通りの意味であると共に、朝子にとっての彼の代わり、彼の代用品として現われたのが、彼と瓜二つの顔を持つ男、関西弁の平凡な会社員、丸子亮平だったことも暗示している。
だが、その代用品が確かな存在に変わることもある。震災という、確かだったはずのものが全て崩れてしまう、不条理な悲劇をただ受け入れるしかない自らの無力さに震えるしかなかった、未曾有の出来事に遭遇したことによって。
確かではなくなってしまった世界に遭遇した彼女は、目の前で真っ直ぐに彼女を見つめる、「誰かに似た人」ではない、丸尾亮平という人を、確かに、愛した。
また、こうとも言える。麦は、突然出現し、風のように姿を消し、彼女が望むことによってまた現われる宇宙人。
それはまるで、朝子を”死”へと誘う、死神だ。
伊藤沙莉が初めて会った時から異常に警戒し、朝子から麦をなるだけ遠ざけることからわかるように。
朝子は2度、彼を手招きする。
1度目は俳優になった麦を乗せた車に向かって、「バイバーイ」と叫び手を大きく振る。
2度目は、幻想の彼が、引越し準備をしている朝子の家のチャイムを鳴らす直前。彼女は何気なく猫を抱き上げ、その前足を持ち、手を振る仕草をさせる。
それを合図に、麦は「だって、朝ちゃんが呼んだんだよ」と言いながら現われるのだ。奇妙なことに、彼女は、お別れの仕草をすることで、”それ”を招き入れてしまったのである。
「なんで今なん?」と言いながらも、麦と同じく白い服を着た朝子は無抵抗に彼の手をとり、夢遊病者のように、スマホという、彼女の今までの交友関係を繋ぐ手段を捨て、北のほうへと、高い堤防によって見えない海に向かって、麦と共に疾走する。
今が夢なのか、亮平と一緒にいた今までが夢だったのか。
麦は見なかった堤防の向こうの海を1人で眺める朝子の表情は、青白く、険しい。
この映画は、直接的には描かれていない”死”の予兆、”死”の雰囲気で溢れている。
2人の逃避行が、生の世界を捨てた朝子が死の世界へ向かっているかのように見えることだけでなく。
震災。
そして、ラジオは同じように流れていて、田中美佐子は同じように青春時代の話を繰り返しているのに、優しそうな笑顔だけをそのままに、変わり果てた姿で横たわっている渡辺大知。
少しの月日が経っただけなのに、
同じ顔だけど違う人、同じ場所だけど違う場所、同じ人だけど違う姿、違う名前。
こんなにも違う。
まるでパラレルワールドにいるかのような。
夢なら、あるいは夢じゃなかったら、どんなにいいか。
そんな不条理でアンバランスな世界の中で、
自分たちの気持ちだけは変わらない、 なんてことはない。
朝子は、ボランティアに行く理由を聞かれ、
「間違いではないことをしたかった、その時は」
と答える。
確かなことなどわからない。なにが正しくてなにが間違っているのかも。
何かがあれば瞬く間に彼らを家ごと飲み込んでしまいそうな”天の川”(天野川?)は、「汚いけどきれい」で、彼らは、そんな世界ごと愛すしかないのだ。何もかも確信することができない自分たち自身を含めて。
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「道」な一日(『日日是好日』・『顔たち、ところどころ』)
最近、仕事の関係で引越しをした。まだ慣れない街を自転車で疾走する。最寄の無人駅は、たまに地域の人たちが集まる立ち飲み食堂に変化するそうで、その次の日なのだろう、木製のベンチには酔っ払いの走り書きのような落書きと柿ピーが詰まっていた。会ったことのないおじさんたちの青春ごっこを想像する。そしてしばらく電車に揺られて辿りつく、まだ慣れない、でも確実に好きになりそうな映画館。
そこで観た映画2本。
大森立嗣監督の『日日是好日』と、映画監督、アニエス・ヴァルダとアーティスト、JRによるドキュメンタリー映画『顔たち、ところどころ』。
JRのあの「目」をどこかで見たと思っていたら、ワタリウム美術館のあの「目」、あの「顔」だったのか。
『日日是好日』でこんな場面がある。
海岸で、大学を卒業する前の黒木華と多部未華子が将来のことを語り合っている。黒木華が海辺の際まで走り、多部に向かって「ザンパーノ!」(多分・・・)と叫び、手にしていた細い流木を使っておどけてみせる。コミカルでささやかな、可愛らしいダンス。
そう、フェリーニの「道」。海と焚き火をじっと見つめるインノセントな存在、ジェルソミーナと、彼女を二束三文で買った、粗野で乱暴な旅芸人、ザンパノの切ない物語。『道』が海の映画であるように、『道』の話で始まり『道』の話で終わる『日日是好日』もまた、海の映画でもある。
20代の黒木華はこの時、ジェルソミーナの側にいる。小さい頃わからなかった映画が今見返すとなんだかわかる、なんだか涙が出ると彼女は言う。自分の存在意義がわからない、模索しているジェルソミーナとして、海の際で、友人多部未華子に呼びかける。
30代、父親を失った彼女は、また海辺に立っている。今度は海の際にいるのは鶴見慎吾演じる父親であり、黒木華は海辺にいて、父親を見て叫ぶ。「お父さん!」と。
この時の黒木華は、自分にとっての亡きジェルソミーナの存在の大きさを今になって知り、海辺で慟哭するザンパノの側にいるのだ。自分にとっての父親の存在の大きさを亡くなった後に初めて知る。
だから、この映画は、茶道と『道』の映画であると言えるのだ。「これを知らない人生なんてすごくもったいない」。うつろう季節、その小さな変化は、ただぼんやりと日常を過ごしていたら見逃してしまいがちなもの。そしてそのなんという事もない日常は、毎日同じようにはできていない。その全てが一期一会であり、人間の生と死もまた同じ。
そこに、茶道の先生役を演じた樹木希林自身の死が重なってくる。
映画の中の2018年、彼女は88歳という設定で生きていて、今年と同じ茶器が使える12年後、「私100歳だわ」と言って笑う。80歳の希林さんにも、90歳の希林さんにも、私たちはもう会うことができない。
そして、続く『顔たち、ところどころ』。
これは『道』とは全く関係がないのだが、ある意味『道』の映画だった。カメラを模した車に乗って、54歳差の2人は旅をする。サングラスを決して外さない長身のJRと、小さくて丸い、白とオレンジのポワンとした不思議な髪型のアニエス・ヴァルダのデコボココンビは、勝手な話だが、ザンパノとジェルソミーナのフォルムと重なる。
デコボコ道を”カメラ”は進み、たくさんの人々の顔が撮られていく。そこで立ち現れる、その街を生きる人々の人生、そして”ヌーヴェルヴァーグの祖母”とも言われるアニエス・ヴァルダ自身の顔、そして人生。
彼らが見つめる海岸。そびえ立つ不思議な岩に寝そべらせた、懐かしい人の肖像は、海の波によって一晩で姿を消してしまう。それを切なげに「しかたないわ」と見つめるヴァルダ。移ろいやすいものだから、人はいずれ死に、自分も死にゆくものだから、それを恐れはしないと。
そして、1つの期待と”彼らしい”といえば彼らしい、ある人物の裏切りを前に落ち込むヴァルダと、彼女を慰めるJR。JRを見つめるヴァルダのその瞳の先には、もしかしたら若かりし頃のゴダールが重なっていたのかもしれない。
帰りがけ、古書店に寄って、なんとなく見つけた淀川長治さんの本を買う。 淀川さんと言えば、『道』の解説で、ザンパノが殺してしまう、調子のいい綱渡りの男、イル・マット(”狂人”という意味らしい)のことを「神」のような存在であると述べていた。私は「神」であると同時に、ジェルソミーナもまた、哀しいことに精神を病み発狂し同じく”狂人”になるわけで、ジェルソミーナにとっての「鏡」の意味を持っているのではないかなと思う。彼らは、同じ記号を持った人物であり、2人ともザンパノのために死ぬ運命にあった。
イル・マットは、なんだか色っぽくて切なくて、好き。
そんなことを、つらつら考えつつ。
若干空気の抜けかけた自転車がプシューッと言って、帰り着いてしまった。
海を駆けてきたのです(『海を駆ける』)
先日海を駆けてきた。
覚えていないだろうか。ドラマ『モンテ・クリスト伯』を観ている最中、CMでのつかの間の休憩中、突然流れる映画の宣伝に圧倒または当惑したことを。「真海さん(『モンテ・クリスト伯』での役名)がまたもなにやら海から漂着している!」そして彼は微笑む。「海を駆けてきた」と。
私はディーン・フジオカという人物が気になってしょうがない。朝ドラ『あさが来た』で突然我々の前に姿を表して以来ずっと。「肩書きは球体」、俳優もすれば歌まで歌う。
ドラマ『モンテ・クリスト伯』で、周りがこれでもかと激しい演技合戦を繰り広げる中、中心にいるはずの復讐鬼は、静かに俳優たちの科学反応を楽しんでいる傍観者であるかのように、どこか飄々と静かに存在していた。
そして、今回の深田晃司監督『海を駆ける』である。これもまた、とても奇妙な映画であり、その中心でディーン・フジオカは謎の人物「ラウ(海)」としてまたも静かに漂っていた。この映画はあくまで太賀と阿部純子、そしてインドネシアの若い男女の、「月がきれいですね」という夏目漱石の言葉を巡る2つの瑞々しい恋と青春の物語なのであるが、その物語の間を、超人的な能力で時に人を救い、時に唐突に人を死に至らしめる、海からやってきた謎の男・ラウが存在する。
ラウには2つの意味がある。1つは、インドネシア語で「ラウ」が「海」という意味であるように、彼自身が「海」そのものであることを示している。映画の冒頭は彼の漂着と、津波の予兆について語る人々のインタビューである。そして彼はまるで地面か何かのように「海を駆ける」人物だ。無邪気な子供のように事物を追いかける姿が想起させるのは、やはり宮崎駿の『崖の上のポニョ』におけるポニョだろう。自然は多くの恩恵を与えると共に、時に理不尽に人の生命を奪う。その不条理な死に人々は向き合っていかなければならない。ラウという超自然的な存在を前に、人々は何を思うのか。
そしてもう1つは、深田監督の映画の多くに見られる、謎の侵入者としてのラウである。『歓待』における古舘寛治、『淵に立つ』における浅野忠信、そして今回の『海を駆ける』におけるディーン・フジオカ。国籍もわからない、『淵に立つ』の場合は前科のある人物が、ある家庭の前に突然現れる。登場人物たちは不信に思いながらも、そのどこの誰かもわからない人物を受け入れる。不信な男は、不思議とその家庭に溶け込み始めるが、ある日突然事件は起こる。『海を駆ける』のディーン・フジオカが突然鶴田真由を死に至らしめるシークェンスの唐突さは、『淵に立つ』の赤い服を着た浅野忠信が突然古館寛治・筒井真理子夫婦の娘に手をかけるシークェンスの唐突さと同じように不可解だ。
そして観客は事件があった後、「ああやはり、彼を受け入れてはいけなかったのだ」と感じる。映画『海を駆ける』の台詞をそのまま引用すると「あいつは化け物だ」と。
その視点は私たち観客の中に根付いている、自分のテリトリーの外にある人物を不信に思う感情を自覚させる。登場人物たちと自分たちは同じだ。そのことに気づかされた時の居心地の悪さは映画を見終わった後にもしつこく我々に付き纏う。
最後に、この映画における重要なモチーフは「写真」である。この映画は、記者を目指すインドネシア人の女性が取材としてカメラを回すこと、彼女を助ける太賀が写真を撮り、現像すること、そして死者が撮り、娘・阿部純子に遺された一枚の写真が想起させる、過去における「撮る」という行為への追憶によって物語が動いている。
劇中の多くの登場人物が写真を撮るということに固執している。記者志望の女性は特ダネを得るために常にカメラを回し続ける。太賀は基本的に快活な若者役であるが、唯一阿部純子が写真を現像するための暗室に勝手に入ってきた時に声を荒げる。そして、阿部純子は、死んだ父親がかつて写真を撮った場所に固執している。
ラウによって海へと導かれた阿部純子の夢の中、トーチカ(戦時中の物見やぐら)の上から、死んだ父親は海の中にいる彼女に向けてカメラを構えている。その後、彼女自身が夢の中の父親のいた場所に行きつく。ラウに話しかけている彼女の傍には死んだ父親が佇んでいる。突如キャメラは高速で海に近づき、カメラのフレームが示しだされ、シャッター音がする。その場所は夢のシークェンスにおいて、阿部純子のいた場所である。
キャメラの謎の俊敏な動きに観客の心を掴ませたまま、物語はつかの間、太賀の記者志望の女の子への告白と照れ隠しの海へのダイブという美しい青春を描いてみせる。だが、その次のシークェンスで、再び物語は不穏で謎に満ちた方向へ舵をきることになるのだ。海に飛び込んだ太賀が手をふる。その視線の先にいたのは父親の散骨を行おうとする阿部純子だ。彼女の視線はカメラとなり、高速で海の中の太賀に近づき捉え、再びシャッターはきられる。その「カメラ」、写真を撮るという行為の「現在進行形のものを一時停止させ過去にしてしまう」という性質、つまり生を突如死に変えてしまう性質は、この不思議な一連の流れを説明付ける何かであろう。
さらにそこに挿入される奇妙な物語。ラウの奇妙な歌声が不吉に鳴り響き、口をぽっかりと開けた少年が立ち尽くし、滝が逆流して吸い込まれていく。海で合流した若者たちとラウの傍を、小さな棺を掲げた葬式行列が通りすぎる。
蝶を無邪気に追いかけているラウがその途中に“なんとなく”鶴田真由を殺してしまうわけだが、その前の予兆も興味深いものだった。トラックの荷台に乗って移動するラウと若者たちのシークェンスである。荷台から立ち上がり、川辺を歩いている鶴田真由に気づいた阿部純子は彼女の名前を何度も呼びかけ手を振る。でも鶴田真由は気付かないままだ。なぜかラウは荷台を降り、鶴田真由を追いかけるわけだが、その時観客は予感する。鶴田真由の身にこの後何か起こるのでなかろうかと。
なぜならそのシークェンスの構造は、以前に見覚えがあるからだ。漂着したラウを保護した人々は彼と共にトラックの荷台で移動する。その時はラウが、前述した阿部純子と同じように荷台から立ち上がり、彼は奇妙な歌声を披露し、その声に釣ったばかりの荷台の魚たちが反応し震動した。そして、前述した鶴田真由がいた場所、向こう岸には、こちらに向かって手を振る女性と子供の姿があった。その姿はその後忽然と消えてしまう。もしかしたら、それらは未来の死者たちであり、まだこの後起こることを知らない私たちへの何かしらの予兆、メッセージなのである。
『海を駆ける』は、実に奇妙な映画だ。時間を歪め、過去と現在、生と死の境界を越え、何かを予感させる。
過去に囚われた2つの雲の物語『浮雲』と『乱れ雲』(成瀬巳喜男監督)
ただのミーハー心で聴いた銀杏BOYSの「骨」が、
「浮雲のように私を連れ去っていく」
そう、それで『浮雲』。
学生の時見たときは正直よく分からなかった。
でも数年ぶりに見直してみたらなんだかものすごく、わかるような気がした。
「東京ブギウギ」
「昔のことがあなたと私には重大なんだわ。それをなくしたら、
空っぽの2人。
男は戦争が終わった時、もう既に心は”もぬけのから”だったのだろう。「身体があっても心がもぬけのから」の男を、
一方、女はそんなこと言っていられない。はっきりしない男に頼らず、女が1人で生きるためには働くしかない。そして彼女も次第に自分をすり減らし、堕胎し、病に伏せっていく。その過程は、彼女自身もまた、”もぬけのから”になっていくことに他ならない。彼女の場合は、身も心も。
どんなに憎まれ口を叩きながらも、高峰秀子は最後の最後まで男が女中と話しているところを不安げに目で追っていて、
憎まれ口を叩きながらも、彼女は最後に「奥さん」
一方の『乱れ雲』。こちらは加山雄三と司葉子。こちらもある意味1つの過去に囚われた男女の恋物語だ。交通事故の加害者と被害者遺族。会わないはずの2人を結びつけた、忌まわしい過去は、立場の違う2人を皮肉にも似た境遇へと追いやり、運命は2人を離さない。償いたい男とそれを拒み新しい人生を生きようとする女が次第に心を通わせていく。
司葉子の色気にやられたのかどうなのか、いくら過失とはいえ「そりゃ調子よすぎないか」とツッコミを言いたくなる出来事がいくつも続くわけだが。
最初は敵視していた司葉子が次第に加山雄三の快活さと、湖でボートを漕いでいたら高熱でぶっ倒れるといった頼りなさに、母性をほだされていく。加山は水筒での間接キスに喜び、相合傘と、同じ旅館の部屋というシチュエーションにどぎまぎし、徹夜の看病までしてもらう。
加山雄三の転勤がさらなる奥地、マラリアの発祥地とも言われるラホールに決まり、何を思ったか彼は「ラホールへの転勤が決まったら一緒に来てほしい」と司葉子に投げかける。最初の婚約者への青森行き同行の申し出がすげなく断られたことのリベンジなのだろうが、それはなかなか、、凄くはないだろうか?
逡巡し、一度は断ったものの、再び彼のもとに会いに行く司葉子。階段から加山を見上げる表情がなんとも色っぽく、美しい。
次第に盛り上がっていく彼らは、何十年も後に観ている私が何を言ってもしかたがない。これはもう完全に恋の病。辛い日常から逃げ、夢見心地で恋に溺れているのである。
ただ、この映画のなにが凄いかって、その後のシークェンスなのだ。彼らは意を決して2人でタクシーに乗り駅に向かう。2人でラホールへと向かうために。
踏み切りの音が鳴り、電車がだいぶゆっくりした時間をかけながら彼らの前を通り過ぎる。あまりに長いので加山はタバコを手にとり、司もなんだか落ち着かない。音楽が不穏な印象を引き立てる。
その時の何か起こりそうな恐怖。観ているこっちが息が詰まる。電車が突然脱線して、彼らに襲いかかるのではないか。祝福される間柄ではない、許されない2人の関係を何かが拒むのではないかと思わせる恐ろしさ。
その後決定的な「何か」が起こってしまい、彼らは夢から覚めることになるのだが、その過程も実に凄まじい。これまで見せられてきた夢が、残酷にも砕け散るまでのカウントダウン。あの長く長く通り過ぎる電車はラストへの布石だったのだ。彼らが共に、無意識に感じてしまった「予感」。
ああ、こういう悲恋もあるのだと気づかされてくれた1作。
[rakuten:book:11610827:detail]
愛すべき、ちょっと切ない男たちの物語『素敵なダイナマイトスキャンダル』
幼少期の末井が最後に見た母親・富子(尾野真千子)は、寝ている彼を見下ろしていた。
それが夢だったのか幽霊だったのか、はたまた真実だったのかはわからないが、朝母を捜しに出た父親と息子たちが聞いた山奥の爆発音と、彼を見下ろしている母親の表情が、彼にとって忘れられないものだったことは間違いない。
彼は、ダイナマイトで跡形もなく散り散りになって死んでいった母親に、疑問と当惑、そして憧れを抱いている。
あるショットにおいて、富子と共通する女性がいる。末井がなぜかどうしようもなく惹かれ、ストーカーまがいの行動をとってしまう、三浦透子演じる笛子だ。彼女はやがて精神を病み、エキセントリックな行動をとり、末井の前に唐突に現れるようになる。病院の中庭で、倒れた末井の視点から見た主観ショットには、彼を見下ろす笛子の顔と、左右の病室の窓が一斉に開く様子が示されている。
末井と笛子二人が幸せの絶頂期に湖畔を歩き、小船で湖の上を漂うシークェンスがある。「いっそこのまま蒸発してしまおうかとも思った」と末井は独白する。どこかで爆発するダイナマイトの音。
彼がいる場所に少し似た場所、彼らが自殺した場所に繋がるのであろう山道で互いを見つけ、山小屋で交わる母親・富子とその愛人という過去の二人の恋路が、末井と笛子の恋路と重ねられる。
しかし、末井は蒸発してしまうことができない。ダイナマイトで爆発する母親と愛人のように、「情念」のまま爆発することはできないのだ。そこに末井という人間の性、さらに言えば編集長という責任を負わなければならない立場にいる人間の性を感じる。
それはなんだか、「わかる、わかる」と頷いてしまわざるを得ない。なんだかんだサラリーマン人生を4年も生きている自分自身を重ね合わせる。
この映画の男たちはみんな、そんな哀愁のある「性(サガ)」に囚われている。牧子(前田敦子)の前に末井が現れたばっかりに、外で切なくハーモニカを吹くしかなくなってしまった牧子の前の男である中年男は、若い末井に「お前もいずれこうなるぞ」とせめてもの呪いの言葉を掛ける。
若い頃、才能が迸っていた峯田和伸演じる末井の友人は、田舎に帰って家業を継ぎ、シケた手紙を送る平凡な男に変わっていく。妻に浮気された上死なれた村上淳演じる父親は、一度は再婚もするがあっけなく死に、緊張したら歌えなくなるのにのど自慢に出ることを楽しみにしていたと死後に語られる。
島本慶演じるモデル斡旋の仕事をする真鍋のオッちゃんも、エロ雑誌の時代が終わりすっかり不景気になってしまい、雨の中、路地に跪き、ずぶ濡れになりながら散らばったモデルの写真をかき集める。
そして彼らを見てきた末井自身もまた・・・・
「栄枯盛衰」というとなんだかムードが違ってくるが、人の世というものは、滑稽かつ切ないものだなと思うのである。
『勝手にふるえてろ』のヨシカは私だ
これはもう、「私」なのだ。そうとしか思えなかった。
一人暮らしの小さな玄関とありふれた茶色のコート、となりの部屋でオカリナを吹いている片桐はいり、イライラを抱えて部屋に帰った時の叫びやらなんやら。浮ついた期待が弾けた後の、広い世界の中で一人ぼっちのように思って道端で歌うあの気分まで、これはもう私の話なんじゃないかと錯覚するほどのエピソードに、次第に涙が止まらなくなり、そんなこじらせた感情とは無縁に生きてきたのではないかと思う隣の女子がどうか、この子を好きでいてくれますようにと願う。幸いなことに彼女の中にも少なからずヨシカがいたそうだ。
きっと「ヨシカは私だ」と思った人は私だけではなく、たくさんいるのではないだろうか。女の子は誰しも、心の中にヨシカ的な存在を抱えている。程度の差はあれ。
最近、友人ができた。友人と言っていいのかもよくわからないが、ビールを一緒に美味しく飲める美人で、私は勝手に友人だと思っている。そんな彼女と休みを一緒にとって、福岡に行った。いつもは一人の「孤独のグルメ」旅が二人になった。雪が降る日、柳橋連合市場で海鮮丼とコーヒー、それから映画と本屋巡り、夜はかわ屋で鳥皮とビール。幸せな一日。そんな日に選んだ映画が、この愛すべきヘンテコな恋愛映画『勝手にふるえてろ』だったのだ。
松岡茉優演じるヨシカは、巷でよく言う「こじらせ女子」。(まあ、「こじらせ女子」という言葉の定義についてはいろいろ思うところがあるわけですけど、それを語っていては何千字になるかってわけでして。。)
それもけっこうなレベルのイタさ。冒頭から「私ごときが」と言いながらカフェの女の子の金髪をそっと撫でて涙する子。映画『スウィート17モンスター』でヘイリー・スタンインフェルドが演じた女の子もいわゆるこじらせ女子だったのだが、その顛末は、永遠絶賛こじらせ中みたいな私にとってはどうにも上から目線で、「よかったね、彼氏できてこじらせ卒業だね」レベルの感想しかもてなかったのであるが、『勝手にふるえてろ』のヨシカは最後の最後までめちゃくちゃにこじらせたまま、そんな彼女をバカみたいに大好きな渡辺大知と不器用を通り越した、ぶつかり合いに近いキスを、彼女の古いアパートの小さな玄関で交わすのである。
前野朋哉、古舘寛治、趣里、柳俊太郎、稲川実代子といったメンバーが織り成すヨシカのありふれた暖かい日常、それはコメディを通り越してもはや幻想に近い何かなのであるが、その均衡が崩れた後の世界を、「絶滅すべきでしょうか?」と松岡茉優が歌いだすミュージカル的シークェンスは、もうただただ切なく美しいとしか言いようがない。
本当に変な映画だ。松岡がものすごい勢いで喋り、「視野見」という技を使い、現実を見ず、過去という沼に突然沈みだす。回想で登場する後藤ユウミ、眉毛の繋がった柳俊太郎など、イチイチ強烈でヘンテコな登場人物たちが妙なテンションで彼女の日常を彩る。
とにかく見て欲しい。この孤独で可愛い物語を、たくさんの人に好きになってほしい。そう思わずにはいられない映画だった。
ときどき「ライターの」と言われることもある、やさぐれ書店員のはなし。
今週のお題「自己紹介」
に便乗して、恥ずかしくも自分の話を。(このブログの使い方もよくわかっていないので、この次更新するかもわかったもんじゃないんですけど・・・)
今の本屋の初日、22歳の私は「卒業旅行に恐山に1人で行って、自殺しようとしているんじゃないかと恐山行きのバスで隣のおばあちゃんに心配されました。よろしくお願いします」というどうにもリアクションしがたいボケ(その時はウケるだろうと思っていた)をなぜか暖かく、優しく楽しい同僚たちに理解され、幸せなことに、もう4年、書店員をやっている。
ただ本を「あいうえお順」に並べるのも苦手、整理整頓も苦手、POP作りも苦手。ニガテ尽くしのドジ尽くし。それでも本屋の仕事はわりと好き。みんなが好きで、今住んでいるこの町が好きで。毎日いろんな人に会って、映画じゃないけど、誰かの人生をちらっと覗き見するような、そんな毎日のような気がするからだ。
物心ついた時から、豊臣秀吉と誕生日が同じなので天下をとるんだと思っていた(後日、秀吉の誕生日と一緒でもなんでもなく、勘違いだったことが約十何年越しに発覚しました)。でもなんだかうまくいかず、外にでたらいつも雨、エスカレーターのタイミングに困惑し、大きな舞台に上ったら、スポットライトが眩しすぎて途端に豆粒みたいに小さくなってしまう私は、ちょっとふしあわせでいたほうがしあわせかもしれない、なんて思うオトナになってしまった。
本屋の日常を終えて、喋りつかれたように、お休みの日はふと黙って映画館の座席に身体を沈める。そしてこの光景を、この感情を少しでも自分の中に留めておきたくて、文章にしていた。もし、よかったら、誰かに伝わるといいな、、とちょっとだけ思ったりもした。そんな感じで書き続けて、、今は夢中。夢の中にいる。
最近、ドラマや映画のレビューで、なんだか調子乗って微妙にえらそうなことを書いているわけだけれど。物語の中にもう1人の「私」をいつも探している。あとは、大好きな人の面影を、煌く瞬間を。
こんな大変な世界を生きている私たちが、それだけで「救われる」瞬間を。
探して、描けたらいいなと思う。
しょせん、人の作ったものをナゾッテルだけだけど。
「プロの観客」になりたい。
そんな、ヘンテコな人間です。