映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

愛すべき、ちょっと切ない男たちの物語『素敵なダイナマイトスキャンダル』

  幼少期の末井が最後に見た母親・富子(尾野真千子)は、寝ている彼を見下ろしていた。

それが夢だったのか幽霊だったのか、はたまた真実だったのかはわからないが、朝母を捜しに出た父親と息子たちが聞いた山奥の爆発音と、彼を見下ろしている母親の表情が、彼にとって忘れられないものだったことは間違いない。

彼は、ダイナマイトで跡形もなく散り散りになって死んでいった母親に、疑問と当惑、そして憧れを抱いている。

 

 あるショットにおいて、富子と共通する女性がいる。末井がなぜかどうしようもなく惹かれ、ストーカーまがいの行動をとってしまう、三浦透子演じる笛子だ。彼女はやがて精神を病み、エキセントリックな行動をとり、末井の前に唐突に現れるようになる。病院の中庭で、倒れた末井の視点から見た主観ショットには、彼を見下ろす笛子の顔と、左右の病室の窓が一斉に開く様子が示されている。

 

 末井と笛子二人が幸せの絶頂期に湖畔を歩き、小船で湖の上を漂うシークェンスがある。「いっそこのまま蒸発してしまおうかとも思った」と末井は独白する。どこかで爆発するダイナマイトの音。

彼がいる場所に少し似た場所、彼らが自殺した場所に繋がるのであろう山道で互いを見つけ、山小屋で交わる母親・富子とその愛人という過去の二人の恋路が、末井と笛子の恋路と重ねられる。

しかし、末井は蒸発してしまうことができない。ダイナマイトで爆発する母親と愛人のように、「情念」のまま爆発することはできないのだ。そこに末井という人間の性、さらに言えば編集長という責任を負わなければならない立場にいる人間の性を感じる。

それはなんだか、「わかる、わかる」と頷いてしまわざるを得ない。なんだかんだサラリーマン人生を4年も生きている自分自身を重ね合わせる。

 

 この映画の男たちはみんな、そんな哀愁のある「性(サガ)」に囚われている。牧子(前田敦子)の前に末井が現れたばっかりに、外で切なくハーモニカを吹くしかなくなってしまった牧子の前の男である中年男は、若い末井に「お前もいずれこうなるぞ」とせめてもの呪いの言葉を掛ける。

若い頃、才能が迸っていた峯田和伸演じる末井の友人は、田舎に帰って家業を継ぎ、シケた手紙を送る平凡な男に変わっていく。妻に浮気された上死なれた村上淳演じる父親は、一度は再婚もするがあっけなく死に、緊張したら歌えなくなるのにのど自慢に出ることを楽しみにしていたと死後に語られる。

島本慶演じるモデル斡旋の仕事をする真鍋のオッちゃんも、エロ雑誌の時代が終わりすっかり不景気になってしまい、雨の中、路地に跪き、ずぶ濡れになりながら散らばったモデルの写真をかき集める。

 そして彼らを見てきた末井自身もまた・・・・

 「栄枯盛衰」というとなんだかムードが違ってくるが、人の世というものは、滑稽かつ切ないものだなと思うのである。