映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

海を駆けてきたのです(『海を駆ける』)

先日海を駆けてきた。

 

覚えていないだろうか。ドラマ『モンテ・クリスト伯』を観ている最中、CMでのつかの間の休憩中、突然流れる映画の宣伝に圧倒または当惑したことを。「真海さん(『モンテ・クリスト伯』での役名)がまたもなにやら海から漂着している!」そして彼は微笑む。「海を駆けてきた」と。

 

私はディーン・フジオカという人物が気になってしょうがない。朝ドラ『あさが来た』で突然我々の前に姿を表して以来ずっと。「肩書きは球体」、俳優もすれば歌まで歌う。

ドラマ『モンテ・クリスト伯』で、周りがこれでもかと激しい演技合戦を繰り広げる中、中心にいるはずの復讐鬼は、静かに俳優たちの科学反応を楽しんでいる傍観者であるかのように、どこか飄々と静かに存在していた。

 

そして、今回の深田晃司監督『海を駆ける』である。これもまた、とても奇妙な映画であり、その中心でディーン・フジオカは謎の人物「ラウ(海)」としてまたも静かに漂っていた。この映画はあくまで太賀と阿部純子、そしてインドネシアの若い男女の、「月がきれいですね」という夏目漱石の言葉を巡る2つの瑞々しい恋と青春の物語なのであるが、その物語の間を、超人的な能力で時に人を救い、時に唐突に人を死に至らしめる、海からやってきた謎の男・ラウが存在する。

 

ラウには2つの意味がある。1つは、インドネシア語で「ラウ」が「海」という意味であるように、彼自身が「海」そのものであることを示している。映画の冒頭は彼の漂着と、津波の予兆について語る人々のインタビューである。そして彼はまるで地面か何かのように「海を駆ける」人物だ。無邪気な子供のように事物を追いかける姿が想起させるのは、やはり宮崎駿の『崖の上のポニョ』におけるポニョだろう。自然は多くの恩恵を与えると共に、時に理不尽に人の生命を奪う。その不条理な死に人々は向き合っていかなければならない。ラウという超自然的な存在を前に、人々は何を思うのか。

 

そしてもう1つは、深田監督の映画の多くに見られる、謎の侵入者としてのラウである。『歓待』における古舘寛治、『淵に立つ』における浅野忠信、そして今回の『海を駆ける』におけるディーン・フジオカ。国籍もわからない、『淵に立つ』の場合は前科のある人物が、ある家庭の前に突然現れる。登場人物たちは不信に思いながらも、そのどこの誰かもわからない人物を受け入れる。不信な男は、不思議とその家庭に溶け込み始めるが、ある日突然事件は起こる。『海を駆ける』のディーン・フジオカが突然鶴田真由を死に至らしめるシークェンスの唐突さは、『淵に立つ』の赤い服を着た浅野忠信が突然古館寛治・筒井真理子夫婦の娘に手をかけるシークェンスの唐突さと同じように不可解だ。

そして観客は事件があった後、「ああやはり、彼を受け入れてはいけなかったのだ」と感じる。映画『海を駆ける』の台詞をそのまま引用すると「あいつは化け物だ」と。

その視点は私たち観客の中に根付いている、自分のテリトリーの外にある人物を不信に思う感情を自覚させる。登場人物たちと自分たちは同じだ。そのことに気づかされた時の居心地の悪さは映画を見終わった後にもしつこく我々に付き纏う。

 

最後に、この映画における重要なモチーフは「写真」である。この映画は、記者を目指すインドネシア人の女性が取材としてカメラを回すこと、彼女を助ける太賀が写真を撮り、現像すること、そして死者が撮り、娘・阿部純子に遺された一枚の写真が想起させる、過去における「撮る」という行為への追憶によって物語が動いている。

 

劇中の多くの登場人物が写真を撮るということに固執している。記者志望の女性は特ダネを得るために常にカメラを回し続ける。太賀は基本的に快活な若者役であるが、唯一阿部純子が写真を現像するための暗室に勝手に入ってきた時に声を荒げる。そして、阿部純子は、死んだ父親がかつて写真を撮った場所に固執している。

 

ラウによって海へと導かれた阿部純子の夢の中、トーチカ(戦時中の物見やぐら)の上から、死んだ父親は海の中にいる彼女に向けてカメラを構えている。その後、彼女自身が夢の中の父親のいた場所に行きつく。ラウに話しかけている彼女の傍には死んだ父親が佇んでいる。突如キャメラは高速で海に近づき、カメラのフレームが示しだされ、シャッター音がする。その場所は夢のシークェンスにおいて、阿部純子のいた場所である。

 キャメラの謎の俊敏な動きに観客の心を掴ませたまま、物語はつかの間、太賀の記者志望の女の子への告白と照れ隠しの海へのダイブという美しい青春を描いてみせる。だが、その次のシークェンスで、再び物語は不穏で謎に満ちた方向へ舵をきることになるのだ。海に飛び込んだ太賀が手をふる。その視線の先にいたのは父親の散骨を行おうとする阿部純子だ。彼女の視線はカメラとなり、高速で海の中の太賀に近づき捉え、再びシャッターはきられる。その「カメラ」、写真を撮るという行為の「現在進行形のものを一時停止させ過去にしてしまう」という性質、つまり生を突如死に変えてしまう性質は、この不思議な一連の流れを説明付ける何かであろう。

 

 さらにそこに挿入される奇妙な物語。ラウの奇妙な歌声が不吉に鳴り響き、口をぽっかりと開けた少年が立ち尽くし、滝が逆流して吸い込まれていく。海で合流した若者たちとラウの傍を、小さな棺を掲げた葬式行列が通りすぎる。

 

蝶を無邪気に追いかけているラウがその途中に“なんとなく”鶴田真由を殺してしまうわけだが、その前の予兆も興味深いものだった。トラックの荷台に乗って移動するラウと若者たちのシークェンスである。荷台から立ち上がり、川辺を歩いている鶴田真由に気づいた阿部純子は彼女の名前を何度も呼びかけ手を振る。でも鶴田真由は気付かないままだ。なぜかラウは荷台を降り、鶴田真由を追いかけるわけだが、その時観客は予感する。鶴田真由の身にこの後何か起こるのでなかろうかと。

なぜならそのシークェンスの構造は、以前に見覚えがあるからだ。漂着したラウを保護した人々は彼と共にトラックの荷台で移動する。その時はラウが、前述した阿部純子と同じように荷台から立ち上がり、彼は奇妙な歌声を披露し、その声に釣ったばかりの荷台の魚たちが反応し震動した。そして、前述した鶴田真由がいた場所、向こう岸には、こちらに向かって手を振る女性と子供の姿があった。その姿はその後忽然と消えてしまう。もしかしたら、それらは未来の死者たちであり、まだこの後起こることを知らない私たちへの何かしらの予兆、メッセージなのである。

 

海を駆ける』は、実に奇妙な映画だ。時間を歪め、過去と現在、生と死の境界を越え、何かを予感させる。

 

 

過去に囚われた2つの雲の物語『浮雲』と『乱れ雲』(成瀬巳喜男監督)

ただのミーハー心で聴いた銀杏BOYSの「骨」が、最近頭から離れなくて。

浮雲のように私を連れ去っていく」というフレーズを繰り返し呟いてしまう。

そう、それで『浮雲』。

 

学生の時見たときは正直よく分からなかった。道ならぬ恋の熱情も消え、夫婦になるわけでもなく、付かず離れず異国から温泉街、屋久島まで流れ流れて。大変だなと。

 でも数年ぶりに見直してみたらなんだかものすごく、わかるような気がした。

 

「東京ブギウギ」を唄う浮き足立った人々を見つめながらピシャリと窓をしめ顔をしかめた高峰秀子と、隣で酒を飲む森雅之。クリスマスの音楽も2人の心を浮き立たせるものではない。あちら側には、元からいられない2人なのだ。

 

「昔のことがあなたと私には重大なんだわ。それをなくしたら、あなたも私もどこにもない」

空っぽの2人。あるのは小さな橋の上を手と手を取り合って歩き、キスをした、その思い出だけ。過去に囚われた男と女は、離れたくても離れられない。「あんたなんか嫌いよ」と言いながら、求めずにはいられないのだ。大切なのは、あの時、橋の上を2人で渡ったこと、見つめあったこと。それだけが、2人の人生にとっての一瞬の輝き、「正しいこと」だったのかもしれない。

 男は戦争が終わった時、もう既に心は”もぬけのから”だったのだろう。「身体があっても心がもぬけのから」の男を、女たちは放っておかない。そしてその空洞は底なし沼のように、多くの女たちを飲み込んでいってしまう。それでも男はニヒルに微笑んで、いなせな男を気取るのだ。

 一方、女はそんなこと言っていられない。はっきりしない男に頼らず、女が1人で生きるためには働くしかない。そして彼女も次第に自分をすり減らし、堕胎し、病に伏せっていく。その過程は、彼女自身もまた、”もぬけのから”になっていくことに他ならない。彼女の場合は、身も心も。

 

どんなに憎まれ口を叩きながらも、高峰秀子は最後の最後まで男が女中と話しているところを不安げに目で追っていて、そこにあるのは恐らく嫉妬と、奪われたくないという固執なのである。

憎まれ口を叩きながらも、彼女は最後に「奥さん」と人に呼びかけられて嬉しそうな顔をする。それがどうにもいじらしい。

 

一方の『乱れ雲』。こちらは加山雄三司葉子。こちらもある意味1つの過去に囚われた男女の恋物語だ。交通事故の加害者と被害者遺族。会わないはずの2人を結びつけた、忌まわしい過去は、立場の違う2人を皮肉にも似た境遇へと追いやり、運命は2人を離さない。償いたい男とそれを拒み新しい人生を生きようとする女が次第に心を通わせていく。

 

司葉子の色気にやられたのかどうなのか、いくら過失とはいえ「そりゃ調子よすぎないか」とツッコミを言いたくなる出来事がいくつも続くわけだが。

最初は敵視していた司葉子が次第に加山雄三の快活さと、湖でボートを漕いでいたら高熱でぶっ倒れるといった頼りなさに、母性をほだされていく。加山は水筒での間接キスに喜び、相合傘と、同じ旅館の部屋というシチュエーションにどぎまぎし、徹夜の看病までしてもらう。

加山雄三の転勤がさらなる奥地、マラリアの発祥地とも言われるラホールに決まり、何を思ったか彼は「ラホールへの転勤が決まったら一緒に来てほしい」と司葉子に投げかける。最初の婚約者への青森行き同行の申し出がすげなく断られたことのリベンジなのだろうが、それはなかなか、、凄くはないだろうか?

逡巡し、一度は断ったものの、再び彼のもとに会いに行く司葉子。階段から加山を見上げる表情がなんとも色っぽく、美しい。

次第に盛り上がっていく彼らは、何十年も後に観ている私が何を言ってもしかたがない。これはもう完全に恋の病。辛い日常から逃げ、夢見心地で恋に溺れているのである。

 

ただ、この映画のなにが凄いかって、その後のシークェンスなのだ。彼らは意を決して2人でタクシーに乗り駅に向かう。2人でラホールへと向かうために。

踏み切りの音が鳴り、電車がだいぶゆっくりした時間をかけながら彼らの前を通り過ぎる。あまりに長いので加山はタバコを手にとり、司もなんだか落ち着かない。音楽が不穏な印象を引き立てる。

 

その時の何か起こりそうな恐怖。観ているこっちが息が詰まる。電車が突然脱線して、彼らに襲いかかるのではないか。祝福される間柄ではない、許されない2人の関係を何かが拒むのではないかと思わせる恐ろしさ。

 

その後決定的な「何か」が起こってしまい、彼らは夢から覚めることになるのだが、その過程も実に凄まじい。これまで見せられてきた夢が、残酷にも砕け散るまでのカウントダウン。あの長く長く通り過ぎる電車はラストへの布石だったのだ。彼らが共に、無意識に感じてしまった「予感」。

ああ、こういう悲恋もあるのだと気づかされてくれた1作。

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愛すべき、ちょっと切ない男たちの物語『素敵なダイナマイトスキャンダル』

  幼少期の末井が最後に見た母親・富子(尾野真千子)は、寝ている彼を見下ろしていた。

それが夢だったのか幽霊だったのか、はたまた真実だったのかはわからないが、朝母を捜しに出た父親と息子たちが聞いた山奥の爆発音と、彼を見下ろしている母親の表情が、彼にとって忘れられないものだったことは間違いない。

彼は、ダイナマイトで跡形もなく散り散りになって死んでいった母親に、疑問と当惑、そして憧れを抱いている。

 

 あるショットにおいて、富子と共通する女性がいる。末井がなぜかどうしようもなく惹かれ、ストーカーまがいの行動をとってしまう、三浦透子演じる笛子だ。彼女はやがて精神を病み、エキセントリックな行動をとり、末井の前に唐突に現れるようになる。病院の中庭で、倒れた末井の視点から見た主観ショットには、彼を見下ろす笛子の顔と、左右の病室の窓が一斉に開く様子が示されている。

 

 末井と笛子二人が幸せの絶頂期に湖畔を歩き、小船で湖の上を漂うシークェンスがある。「いっそこのまま蒸発してしまおうかとも思った」と末井は独白する。どこかで爆発するダイナマイトの音。

彼がいる場所に少し似た場所、彼らが自殺した場所に繋がるのであろう山道で互いを見つけ、山小屋で交わる母親・富子とその愛人という過去の二人の恋路が、末井と笛子の恋路と重ねられる。

しかし、末井は蒸発してしまうことができない。ダイナマイトで爆発する母親と愛人のように、「情念」のまま爆発することはできないのだ。そこに末井という人間の性、さらに言えば編集長という責任を負わなければならない立場にいる人間の性を感じる。

それはなんだか、「わかる、わかる」と頷いてしまわざるを得ない。なんだかんだサラリーマン人生を4年も生きている自分自身を重ね合わせる。

 

 この映画の男たちはみんな、そんな哀愁のある「性(サガ)」に囚われている。牧子(前田敦子)の前に末井が現れたばっかりに、外で切なくハーモニカを吹くしかなくなってしまった牧子の前の男である中年男は、若い末井に「お前もいずれこうなるぞ」とせめてもの呪いの言葉を掛ける。

若い頃、才能が迸っていた峯田和伸演じる末井の友人は、田舎に帰って家業を継ぎ、シケた手紙を送る平凡な男に変わっていく。妻に浮気された上死なれた村上淳演じる父親は、一度は再婚もするがあっけなく死に、緊張したら歌えなくなるのにのど自慢に出ることを楽しみにしていたと死後に語られる。

島本慶演じるモデル斡旋の仕事をする真鍋のオッちゃんも、エロ雑誌の時代が終わりすっかり不景気になってしまい、雨の中、路地に跪き、ずぶ濡れになりながら散らばったモデルの写真をかき集める。

 そして彼らを見てきた末井自身もまた・・・・

 「栄枯盛衰」というとなんだかムードが違ってくるが、人の世というものは、滑稽かつ切ないものだなと思うのである。

 

『勝手にふるえてろ』のヨシカは私だ

 これはもう、「私」なのだ。そうとしか思えなかった。

 一人暮らしの小さな玄関とありふれた茶色のコート、となりの部屋でオカリナを吹いている片桐はいり、イライラを抱えて部屋に帰った時の叫びやらなんやら。浮ついた期待が弾けた後の、広い世界の中で一人ぼっちのように思って道端で歌うあの気分まで、これはもう私の話なんじゃないかと錯覚するほどのエピソードに、次第に涙が止まらなくなり、そんなこじらせた感情とは無縁に生きてきたのではないかと思う隣の女子がどうか、この子を好きでいてくれますようにと願う。幸いなことに彼女の中にも少なからずヨシカがいたそうだ。

きっと「ヨシカは私だ」と思った人は私だけではなく、たくさんいるのではないだろうか。女の子は誰しも、心の中にヨシカ的な存在を抱えている。程度の差はあれ。

 

 最近、友人ができた。友人と言っていいのかもよくわからないが、ビールを一緒に美味しく飲める美人で、私は勝手に友人だと思っている。そんな彼女と休みを一緒にとって、福岡に行った。いつもは一人の「孤独のグルメ」旅が二人になった。雪が降る日、柳橋連合市場で海鮮丼とコーヒー、それから映画と本屋巡り、夜はかわ屋で鳥皮とビール。幸せな一日。そんな日に選んだ映画が、この愛すべきヘンテコな恋愛映画『勝手にふるえてろ』だったのだ。

 

 松岡茉優演じるヨシカは、巷でよく言う「こじらせ女子」。(まあ、「こじらせ女子」という言葉の定義についてはいろいろ思うところがあるわけですけど、それを語っていては何千字になるかってわけでして。。)

それもけっこうなレベルのイタさ。冒頭から「私ごときが」と言いながらカフェの女の子の金髪をそっと撫でて涙する子。映画『スウィート17モンスター』でヘイリー・スタンインフェルドが演じた女の子もいわゆるこじらせ女子だったのだが、その顛末は、永遠絶賛こじらせ中みたいな私にとってはどうにも上から目線で、「よかったね、彼氏できてこじらせ卒業だね」レベルの感想しかもてなかったのであるが、『勝手にふるえてろ』のヨシカは最後の最後までめちゃくちゃにこじらせたまま、そんな彼女をバカみたいに大好きな渡辺大知と不器用を通り越した、ぶつかり合いに近いキスを、彼女の古いアパートの小さな玄関で交わすのである。

 

 前野朋哉古舘寛治趣里、柳俊太郎、稲川実代子といったメンバーが織り成すヨシカのありふれた暖かい日常、それはコメディを通り越してもはや幻想に近い何かなのであるが、その均衡が崩れた後の世界を、「絶滅すべきでしょうか?」と松岡茉優が歌いだすミュージカル的シークェンスは、もうただただ切なく美しいとしか言いようがない。

 本当に変な映画だ。松岡がものすごい勢いで喋り、「視野見」という技を使い、現実を見ず、過去という沼に突然沈みだす。回想で登場する後藤ユウミ、眉毛の繋がった柳俊太郎など、イチイチ強烈でヘンテコな登場人物たちが妙なテンションで彼女の日常を彩る。

 とにかく見て欲しい。この孤独で可愛い物語を、たくさんの人に好きになってほしい。そう思わずにはいられない映画だった。

 

ときどき「ライターの」と言われることもある、やさぐれ書店員のはなし。

今週のお題「自己紹介」

に便乗して、恥ずかしくも自分の話を。(このブログの使い方もよくわかっていないので、この次更新するかもわかったもんじゃないんですけど・・・)

 

今の本屋の初日、22歳の私は「卒業旅行に恐山に1人で行って、自殺しようとしているんじゃないかと恐山行きのバスで隣のおばあちゃんに心配されました。よろしくお願いします」というどうにもリアクションしがたいボケ(その時はウケるだろうと思っていた)をなぜか暖かく、優しく楽しい同僚たちに理解され、幸せなことに、もう4年、書店員をやっている。

ただ本を「あいうえお順」に並べるのも苦手、整理整頓も苦手、POP作りも苦手。ニガテ尽くしのドジ尽くし。それでも本屋の仕事はわりと好き。みんなが好きで、今住んでいるこの町が好きで。毎日いろんな人に会って、映画じゃないけど、誰かの人生をちらっと覗き見するような、そんな毎日のような気がするからだ。

 

物心ついた時から、豊臣秀吉と誕生日が同じなので天下をとるんだと思っていた(後日、秀吉の誕生日と一緒でもなんでもなく、勘違いだったことが約十何年越しに発覚しました)。でもなんだかうまくいかず、外にでたらいつも雨、エスカレーターのタイミングに困惑し、大きな舞台に上ったら、スポットライトが眩しすぎて途端に豆粒みたいに小さくなってしまう私は、ちょっとふしあわせでいたほうがしあわせかもしれない、なんて思うオトナになってしまった。

 

本屋の日常を終えて、喋りつかれたように、お休みの日はふと黙って映画館の座席に身体を沈める。そしてこの光景を、この感情を少しでも自分の中に留めておきたくて、文章にしていた。もし、よかったら、誰かに伝わるといいな、、とちょっとだけ思ったりもした。そんな感じで書き続けて、、今は夢中。夢の中にいる。

 

最近、ドラマや映画のレビューで、なんだか調子乗って微妙にえらそうなことを書いているわけだけれど。物語の中にもう1人の「私」をいつも探している。あとは、大好きな人の面影を、煌く瞬間を。

こんな大変な世界を生きている私たちが、それだけで「救われる」瞬間を。

探して、描けたらいいなと思う。

しょせん、人の作ったものをナゾッテルだけだけど。

「プロの観客」になりたい。

 

そんな、ヘンテコな人間です。

 

 

『CURE』的な「特別な人間」の夏帆が、虐げられる『地獄の警備員』的な染谷を救う話としての『予兆』

 映画『散歩する侵略者』とWOWOWのテレビドラマとして放送され、後に劇場版が公開されたスピンオフ作品である『予兆―散歩する侵略者-』は同じ概念を奪う侵略者と人間との攻防を描いたものであるが、「愛」「共存」という言葉を軸に陽と陰、まるで違った様相を見せている。

 以前、『散歩する侵略者』については純粋な「愛」の物語としてのレビューを書いたのだが、『予兆』は何かが違う気がして、文章にすることをしばらくやめ、黒沢監督作品群を追いかけることにした。

松田龍平と長澤まさみ、官能的な愛の表現ーー黒沢清『散歩する侵略者』が描く鮮烈な人間賛歌|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

だが、同じ視点で描くことが可能ならば、『散歩する侵略者』で侵略者を演じる松田龍平は最終的に愛を知り、高杉真宙長谷川博己と身体を共有することで目的を果たすが、『予兆』の東出昌大はそれらを得ることができなかったのだと言えるだろう。

彼の死の原因は、「愛」と「共存」を知りえなかった、そしてその「愛」と「共存」を人間が求めざるを得ない理由である「死の恐怖」のほうを知ってしまったことにある。

 

散歩する侵略者』で侵略者たちに概念を奪われた人々は、今まで自分を束縛していたものから解放されて、かえって清々しい表情をしている。だが、『予兆』で東出に概念を奪われる人々は、プライド、過去・未来、命、恐怖を奪われ、廃人と化してしまう彼らのその先を観客に容易に想像させてしまうのである。そして、それらの概念を習得していくことで東出はよりいっそう残酷に、「死の恐怖」をスリルとして楽しみながら、揺るぎない愛のみを武器とする「特別な人間」夏帆と、東出の見えない支配から逃れられないガイドである染谷将太と対峙する。

 

 この夏帆と染谷が演じるキャラクターが面白い。東出のキャラクターが、それぞれ黒沢清の監督作品である『CURE』の萩原聖人と『地獄の警備員』の松重豊を髣髴とさせるからなのだが、いわば『予兆』は、『CURE』的な「特別な人間」の夏帆が、虐げられる『地獄の警備員』的な染谷を救う話なのだ。

 

 『CURE』の萩原は、記憶障害を患い自分が何者かわからず、「からっぽ」な存在であり、ひたすら相手に問いかけることで対象が心に封じ込めていた欲望を解き放つ。その手段として「水」が効果的に使われている。また、萩原は初めて登場するシークェンスにおいて、屋上から落下し、ターゲットであるでんでんに「上から降ってきた人間」として認識させる。つまり、『CURE』の萩原は、ある意味『予兆』の東出と同じ宇宙人的存在だ。

 

 同じく『予兆』の東出も、最初自分が何者か把握できない状況にあり、「からっぽ」の身体に、奪った概念を蓄積していく。そして問いかけ続けることによって相手の感情、概念を引き出す。夏帆が彼の登場の「予兆」として雨、水の波紋と震動をイメージするのも、彼が『CURE』の萩原聖人と共通することを物語っているといえるだろう。そして、『CURE』で萩原が役所広司をそう定義づけたのと同じように、東出が「特別な人間」と定義する夏帆は、ある意味「愛を貫く役所広司」である。

 

 一方、染谷は、『地獄の警備員』で警備員・松重豊に虐げられる側の人物たちの要素を多く担っている。松重は最初の頃、殺人のターゲットを同僚に選ばせるようにしている。最初は戸惑い怖がっていた同僚も、いったん選ぶ権利を与えられると、気に入らない人間、かつて自分を虐げた人間を、自身の手を汚さず報復する権利を与えられたとでも言うように、嬉々として選ぶようになる。だが、次第に自分のしていることと松重のあまりの残虐さに恐れおののき、自分自身が殺されることになる。この流れは、染谷の前半の流れと同じである。

 

 そしてもう1つ、忘れてはならないのが「ノック」である。『予兆』で仕事を休んだ染谷が1人寝ている自宅に、東出が訪れる。玄関のチャイムが3回なり、染谷は黙って鍵を開けたまま様子を窺う。そしてその後の沈黙に相手が東出であることを察し、そのまま後ずさりしベランダに隠れる。これも奇妙な現象だろう。3回もチャイムがなること自体怪しむべきことであり、警戒しているはずなのに外の様子を窺うこともせず、まず鍵を開け、そのままドアを開けることもせずただじっとしているという染谷の行動自体が違和を感じさせる。

 

 ここで『地獄の警備員』における3回のチャイムならぬ「3回のノック」という恐ろしいエピソードを引用する。鍵が特殊で警備員でも開けることのできない絶対安全な部屋に1人隠れた女性社員は、「3回のノック以外は絶対にドアを開けないこと」を仲間と示し合わせていた。だが、ノックは3回以上、無数になり続け、女はドアの外にいる人物が敵であることを察し、半狂乱になる。その後、ふいにノックがやみ、長い沈黙が訪れた時、女は孤独の恐怖に耐え切れずドアの向こうに松重がいると知りながらドアを自ら開けてしまう。

 

 染谷の場合、チャイムは示し合わせたように「3回」で、そのことをうっすら彼は知りながらも、東出を自宅に自ら招きいれ、招きいれつつ、隠れる。つまり彼は東出の見えない支配に怯えているが、その支配は後に東出が「心のどこかで僕のことを求めるかぎりきっと君は死ぬまで僕のガイド」と言うように、彼自身が求め、招き入れるがゆえのものなのだ。

 

 この染谷の東出への屈折した愛、彼の中に潜んだ、自分を虐げた人間を懲らしめたいという歪んだ暴力的な感情と、その忌むべき「愛」から逃れるための痛み止めの注射のような夏帆への愛のせめぎあいがこのとことん小市民的な、東出が言うところの「実に人間くさい人間」である染谷の面白さであろう。

 

 『予兆』のラストは、東出が「運命を受け入れ」死に至り、抱擁する夏帆と染谷を、夏帆が感じる「予兆」ではない現実の雨が包むところで終わる。

別に東出は死なない方法もあったはずだ。映画『散歩する侵略者』で高杉真宙が死の前に長谷川博己の身体に乗り移ったように、無理やり夏帆の身体に乗り移る方法もあった。それこそ『CURE』の役所広司が妻と萩原を殺し、自身が新たな殺人を誘発する男に成り代わったように、「特別な人間」である夏帆が東出に成り代わるという筋書きの可能性も十分に考えられる。

だが、東出がそれを選ばず人間として「ただ死ぬ」という運命を受け入れたことは、彼が少しは人間へ興味を持ち、彼なりに人に近づこうとしていたということに他ならない。

そして、夏帆もまた、地球の滅亡を前にしても、夫のためだけに動くその揺るぎない母性の強さは、『CURE』の役所広司に勝るものがあったということだろう。

東出が運命をただ受け入れたように、彼らもまた、受け入れるべき運命に飲み込まれるのか。

映画『散歩する侵略者』のスピンオフとはいえ、どこかパラレルワールドの雰囲気を持っているため、同じ道筋を辿るとも思えず、つい彼らの行く先を案じてしまうのである。