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『CURE』的な「特別な人間」の夏帆が、虐げられる『地獄の警備員』的な染谷を救う話としての『予兆』

 映画『散歩する侵略者』とWOWOWのテレビドラマとして放送され、後に劇場版が公開されたスピンオフ作品である『予兆―散歩する侵略者-』は同じ概念を奪う侵略者と人間との攻防を描いたものであるが、「愛」「共存」という言葉を軸に陽と陰、まるで違った様相を見せている。

 以前、『散歩する侵略者』については純粋な「愛」の物語としてのレビューを書いたのだが、『予兆』は何かが違う気がして、文章にすることをしばらくやめ、黒沢監督作品群を追いかけることにした。

松田龍平と長澤まさみ、官能的な愛の表現ーー黒沢清『散歩する侵略者』が描く鮮烈な人間賛歌|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

だが、同じ視点で描くことが可能ならば、『散歩する侵略者』で侵略者を演じる松田龍平は最終的に愛を知り、高杉真宙長谷川博己と身体を共有することで目的を果たすが、『予兆』の東出昌大はそれらを得ることができなかったのだと言えるだろう。

彼の死の原因は、「愛」と「共存」を知りえなかった、そしてその「愛」と「共存」を人間が求めざるを得ない理由である「死の恐怖」のほうを知ってしまったことにある。

 

散歩する侵略者』で侵略者たちに概念を奪われた人々は、今まで自分を束縛していたものから解放されて、かえって清々しい表情をしている。だが、『予兆』で東出に概念を奪われる人々は、プライド、過去・未来、命、恐怖を奪われ、廃人と化してしまう彼らのその先を観客に容易に想像させてしまうのである。そして、それらの概念を習得していくことで東出はよりいっそう残酷に、「死の恐怖」をスリルとして楽しみながら、揺るぎない愛のみを武器とする「特別な人間」夏帆と、東出の見えない支配から逃れられないガイドである染谷将太と対峙する。

 

 この夏帆と染谷が演じるキャラクターが面白い。東出のキャラクターが、それぞれ黒沢清の監督作品である『CURE』の萩原聖人と『地獄の警備員』の松重豊を髣髴とさせるからなのだが、いわば『予兆』は、『CURE』的な「特別な人間」の夏帆が、虐げられる『地獄の警備員』的な染谷を救う話なのだ。

 

 『CURE』の萩原は、記憶障害を患い自分が何者かわからず、「からっぽ」な存在であり、ひたすら相手に問いかけることで対象が心に封じ込めていた欲望を解き放つ。その手段として「水」が効果的に使われている。また、萩原は初めて登場するシークェンスにおいて、屋上から落下し、ターゲットであるでんでんに「上から降ってきた人間」として認識させる。つまり、『CURE』の萩原は、ある意味『予兆』の東出と同じ宇宙人的存在だ。

 

 同じく『予兆』の東出も、最初自分が何者か把握できない状況にあり、「からっぽ」の身体に、奪った概念を蓄積していく。そして問いかけ続けることによって相手の感情、概念を引き出す。夏帆が彼の登場の「予兆」として雨、水の波紋と震動をイメージするのも、彼が『CURE』の萩原聖人と共通することを物語っているといえるだろう。そして、『CURE』で萩原が役所広司をそう定義づけたのと同じように、東出が「特別な人間」と定義する夏帆は、ある意味「愛を貫く役所広司」である。

 

 一方、染谷は、『地獄の警備員』で警備員・松重豊に虐げられる側の人物たちの要素を多く担っている。松重は最初の頃、殺人のターゲットを同僚に選ばせるようにしている。最初は戸惑い怖がっていた同僚も、いったん選ぶ権利を与えられると、気に入らない人間、かつて自分を虐げた人間を、自身の手を汚さず報復する権利を与えられたとでも言うように、嬉々として選ぶようになる。だが、次第に自分のしていることと松重のあまりの残虐さに恐れおののき、自分自身が殺されることになる。この流れは、染谷の前半の流れと同じである。

 

 そしてもう1つ、忘れてはならないのが「ノック」である。『予兆』で仕事を休んだ染谷が1人寝ている自宅に、東出が訪れる。玄関のチャイムが3回なり、染谷は黙って鍵を開けたまま様子を窺う。そしてその後の沈黙に相手が東出であることを察し、そのまま後ずさりしベランダに隠れる。これも奇妙な現象だろう。3回もチャイムがなること自体怪しむべきことであり、警戒しているはずなのに外の様子を窺うこともせず、まず鍵を開け、そのままドアを開けることもせずただじっとしているという染谷の行動自体が違和を感じさせる。

 

 ここで『地獄の警備員』における3回のチャイムならぬ「3回のノック」という恐ろしいエピソードを引用する。鍵が特殊で警備員でも開けることのできない絶対安全な部屋に1人隠れた女性社員は、「3回のノック以外は絶対にドアを開けないこと」を仲間と示し合わせていた。だが、ノックは3回以上、無数になり続け、女はドアの外にいる人物が敵であることを察し、半狂乱になる。その後、ふいにノックがやみ、長い沈黙が訪れた時、女は孤独の恐怖に耐え切れずドアの向こうに松重がいると知りながらドアを自ら開けてしまう。

 

 染谷の場合、チャイムは示し合わせたように「3回」で、そのことをうっすら彼は知りながらも、東出を自宅に自ら招きいれ、招きいれつつ、隠れる。つまり彼は東出の見えない支配に怯えているが、その支配は後に東出が「心のどこかで僕のことを求めるかぎりきっと君は死ぬまで僕のガイド」と言うように、彼自身が求め、招き入れるがゆえのものなのだ。

 

 この染谷の東出への屈折した愛、彼の中に潜んだ、自分を虐げた人間を懲らしめたいという歪んだ暴力的な感情と、その忌むべき「愛」から逃れるための痛み止めの注射のような夏帆への愛のせめぎあいがこのとことん小市民的な、東出が言うところの「実に人間くさい人間」である染谷の面白さであろう。

 

 『予兆』のラストは、東出が「運命を受け入れ」死に至り、抱擁する夏帆と染谷を、夏帆が感じる「予兆」ではない現実の雨が包むところで終わる。

別に東出は死なない方法もあったはずだ。映画『散歩する侵略者』で高杉真宙が死の前に長谷川博己の身体に乗り移ったように、無理やり夏帆の身体に乗り移る方法もあった。それこそ『CURE』の役所広司が妻と萩原を殺し、自身が新たな殺人を誘発する男に成り代わったように、「特別な人間」である夏帆が東出に成り代わるという筋書きの可能性も十分に考えられる。

だが、東出がそれを選ばず人間として「ただ死ぬ」という運命を受け入れたことは、彼が少しは人間へ興味を持ち、彼なりに人に近づこうとしていたということに他ならない。

そして、夏帆もまた、地球の滅亡を前にしても、夫のためだけに動くその揺るぎない母性の強さは、『CURE』の役所広司に勝るものがあったということだろう。

東出が運命をただ受け入れたように、彼らもまた、受け入れるべき運命に飲み込まれるのか。

映画『散歩する侵略者』のスピンオフとはいえ、どこかパラレルワールドの雰囲気を持っているため、同じ道筋を辿るとも思えず、つい彼らの行く先を案じてしまうのである。