かっこいいじいちゃんとオンディーヌな悪女(『運び屋』と『サスペリア』)
最近観た映画諸々。
『運び屋』(クリント・イーストウッド)と『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ)。
『運び屋』は
「じいちゃん、かっこよすぎ!」
に尽きる。
仕事と男の友情にかまけていろいろやらかして家族も離れていって、遂には運び屋稼業に手を出しちゃって。そもそも仕事っていうのが花の栽培で、デイリリーっていうたった1日しか咲かない花に人生かけてきたところがまた、「男のロマン」的なこだわりを生きてきた男であることを感じさせる。
暗い話になるのかと思いきや、悪そうな監視のあんちゃんたちも思わず一緒に歌っちゃうぐらい楽しそうな、鼻歌混じりの軽快で爽快なドライブで得た金によって、失ったもの、あるいは失われそうなものを1つずつ取り戻していく。
彼の事業を立ち行かなくさせたのは、彼が憎むインターネットなる近代化の権化だったわけで。これは老人が、時代の波によって容赦なく奪われたものを奪い返していく物語だと言えるのかもしれない。
迫力のあるダイナマイトバディの女の子たちが腰をフリフリ迫ってきたりして、スマートにダンスしたり、ワンナイトラブしたり(?)
若いお兄ちゃんたちとの会話も、『アリー』を観て以来キュンとする(『アリー』はあのクズ旦那が落ちぶれていく様こそ全ての映画だと思うんです!)ブラッドリー・クーパー演じるマトリの彼への「俺みたいになるなよ」発言も、実に説教くさくなくてイカシテルと言うか。
全てにおいてめちゃくちゃかっこいいんです、この90歳。
でもまあそんな楽しい楽しい時間にもお終いは必ずやってくる。ヤンチャなおじいちゃんも、妻が危ないとなって家族の元に走ったりするわけで。そこで、超常識人っぽい妻の尽きる事のない愛に驚かされたりする。
で、やることやった彼の物語は、花をサクっと切って、軽快なジョークをとばす冒頭へとゆるりとゆるりと戻っていく。まあでも完全に戻ったわけではなくて、その引き摺るような老いた足は、もう軽快な足取りには戻らないわけだけど。
それでも。
老いた足が踏みしめるその先は、意外にも悪くない。
一方、ガラッと風味を変えてサスペリア。
『オンディーヌ』っていう、小さい頃から好きな吉原幸子の長い詩があるんですけどね。
恋愛というものを想うとき、いつもその詩の一節が頭に浮かぶのです。
ーわたしがあなたのなかでわたしにならうとするとき、あなたの手足がじゃまになったことはほんたうです。わたしの手足も。
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この、身体と身体を重ねている時に、100パーセント一体になりたいというか、どうしてなれないんだろうという苛立ちと違和感。想いと身体は必ずしも一緒ではないし、”私”と”あなた”の思いの重さは必ずしも一緒ではないことへの戸惑いと怒りというか、そんな彼女の気持ち。
それなんじゃないかと思ったのです。よくわからないけど、『サスペリア』って。怖い女たちが座る、長いテーブルの端と端で対面し、つかの間2人だけの世界に浸るマダム・ブランとヒロイン・スージーの間に芽生えていたものって。
この映画、外を見るとよく雨が降っている。
まだ誰かよくわからない狂乱の美少女と老人の会話をそのままに、死にかけた母親の、何かを訴えかけるような荒い呼気をオフの音として残したまま、ヒロイン・スージー(ダコタ・ジョンソン)は、ベルリンのダンスカンパニーの門の前に降り立つ。
登場して間もない段階で、無意識のまま「獣とファックする」かのように、鏡に覆われた別室にいるダンサー仲間の肉体をダンスで切り裂き、捻じ曲げ、痛みつける。
骨を律動させ、空気を切り裂くように踊る彼女の動きは、それだけで殺人的だ。
彼女の変貌は、崇拝する講師、マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)が彼女の夢の中に徐々に侵入していくからなのか、それとも彼女自身が、母親が必死でこちらに訴えかけるように、元々「忌まわしい子供」だったからなのか。なんでも欲しくなってしまう性癖と、魔女たちの戯れに目配せし微笑むその姿から、恐らく後者だろう。
鏡の部屋で、勝手に壊れていく自分自身の身体を見つめながらも止められない女の身体から沁みだす水は、外部の雨を内部に持ち込み、スージーが夢にうなされて叫ぶ「自分がわかる、自分が誰なのかわかる!」という台詞にも繋がる。
ティルダ・スウィントンがなぜか男性役含め三役もしなければならなかった理由もまた、「意識下の奇妙な領域」を描くためだったということからも(『サスペリアMAGAZINE』,洋泉社MOOK,p.25)、これは一人の少女の自我の目覚めと禍々しい「母」の誕生の物語なのだ。
彼女を愛する三人の女。母親と、擬似的な母親とも言えるマダム・ブラン、そして、瑞々しく可愛らしい、友情以上の親密さを垣間見せるサラ(ミア・ゴス)。
禁欲的なイメージのマダム・ブランとの夢を通した交感、跳躍のレッスンは妙に濃密で、後半そこはかとない恋情のようなものが漂う。それらはまるで、他人を自分の身体の中に取り込もうとする行為のようで。前述した『オンディーヌ』の一節のようで。
取り込もうとしたマダム・ブランが逆に取り込まれ、用済みになって死に至ったかのようにも思えるその終焉は、母親やサラの死と共に、それを自分自身の中に取り込み、肥大化していく、禍々しい女の誕生を示している。
彼女が行った殺人と忘却は、本当に救済と言えるのだろうか。「救済」、「メロドラマ」、そういって感動の涙を流せるほど映画通ではない。
おぞましいと思う。
なぜならこれは、魔女と化した、清純極まりないオンディーヌの物語なのだから。