映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

地獄巡りと名美巡り、またの名を歌謡曲巡り(『ラブホテル』考)

 

山口百恵の「夜へ・・・」(1979)は深い、深い闇へと静かに分け入っていく。

 

少女が女になるその瞬間を、初期の曲の浮き足立った青春の「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(「ひと夏の経験」)から、ど直球な「あなたの○○○が欲しいのです」(「美・サイレント」)ときて、「夜へ…行かせて」と静かに深淵へ。

 

山口百恵の歌を聴いていると、その清純なイメージとは裏腹な、意味深な歌詞にいつもドキリとする。そして誘われる。女の情念の世界。夜の世界。

 

 その世界は、ちあきなおみの「夜を急ぐ人」(1977)が「おいでおいで」と囁く世界に少し似ている。

真っ暗な夜、「ネオンの海」。

 

 

「ネオンの海」を生きるのは、『天使のはらわた 赤い教室』(曽根中生/1979)の名美(水原ゆう紀)。『約束』(斎藤耕一)の岸恵子ショーケンの約束が果たされなかったのと同じ、なんともメロドラマチックな理由で、名美と村木はどしゃぶりの雨の中、すれ違う。やがて再会した2人。

「ここから出るんだ、行こう、俺と一緒に」と投げかける村木に女は答える。

「来る?あなたが」

水溜りに映った彼女。まるで地べたや水が生命を持ったかのように、彼女をじっと見上げている。もう戻れない彼女を、さらなる深淵へと引き込もうとするかのように。

 

 

根津甚八演じる村木は、夏川結衣演じる1994年のどん底の名美を強引に連れ去る(『夜がまた来る』/石井隆)。それはまるで、あの時救えなかった思いを、自分だけ幸せな愛の巣に逃げた後悔を拭い去ろうとするかのようだ。

だが、その結末は、あっけなく、夫の復讐に燃える名美による村木の殺害に終わる。そう、あの時彼女は2人の村木を殺したのだ。『ラブホテル』の村木(寺田農)と、『夜がまた来る』の村木の2人を(正確に言えば『ラブホテル』の村木を『夜がまた来る』の村木が殺し、名美がさらにその村木を殺したわけだが)。

 

名美の地獄巡りは、どこまで続くのだろう。村木はいつ彼女を本当の意味で救えるのだろう。

 

 

しかし、1985年の『ラブホテル』(相米慎二)における名美と村木の物語は、少し、趣きが違う。

美しい。美しいけれども、不思議な映画だ。山口百恵の「夜へ・・・」ともんた&ブラザーズの「赤いアンブレラ」と、童謡「赤い靴」という歌の大混戦という意味でも。

 

行きずりの男女の、すれ違いのSEXから始まり、それぞれの恋人との紆余曲折を経た後、2人はもう一度出会い直し、そして本当の意味ですれ違うための物語。新しく、再生するために。

 

夕美と名乗っていた彼女は、最後に土屋名美として、村木に抱かれる。バラバラに果てるという謎の行為が村木によってなされた最初のホテルに戻って、2人が村木と名美として情を交わし、絶頂の中、村木が名美の名前をしっかりと呼ぶ。そしてキャメラが、名美を組み伏せた自分の姿を鏡越しに見つめた瞬間の村木を捕らえた時、観客は、この甘美な時間がもうすぐ終わることを予感する。名美と村木のメロドラマは、名美の意志とは反対に、終焉へ辿りつこうとしている。

明日も、明後日も、2人の時間はもう訪れないのだ。

 

そして、なんだか祝祭めいた最後の場面。

名美の部屋にある謎めいた不気味な子供の人形が、最後のシークェンスで人間の子供たちに成り代わり増殖したかのように、子供たちが自転車もそっちのけで遊んでいる。いつのまにか、冬が終わり春がきた。

桜が舞う中、「赤いアンブレラ」と村木の元妻が口ずさむ「赤い靴」が同時に流れこむ。別にすれ違う女2人のどこにも赤い要素はない。

 

でももし言えるとしたら、『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や、『台風クラブ』の東京帰りの工藤夕貴という、一つの通過儀礼を経て大人への階段を登った少女たちが揃って終盤に赤い靴を履いていたように、彼女たちもまた、そこに「赤い靴」が流されることによって、(大人だから)もう履かない「赤い靴」をそれぞれに履かされるのではないのか。

 

なぜなら「海底の人魚の国に帰る」と言って海に身を投げようとした時、名美は灯台の上に不自然に、これ見よがしに黒い靴を置き去りにしようとした。新しく前に進むためには、新しい靴に履き替える必要がある。

 

”海底の人魚”と、一度夫の元から”異人さんにつれられて行った”女(冒頭妻がヤクザに襲われ、そのことにショックを受ける村木の姿が描かれる)は、それぞれに赤い靴を履いて、一方は「去りゆく人の靴音 そっと運んでくれる」のを待ち、もう一方はやがて「去りゆく人の足音 ふっとうかんで消え」(共に「赤いアンブレラ」)てしまうから、ようやく1人生きる明日を見据えることができるのである。