映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

映画・ドラマレビューばかり書いている書店員のよもやま話

ある日常と祝祭(「半世界」)

「なんか、映画みたいだな」

長谷川博己演じる瑛介は終盤、そう呟く。

葬儀場に降る、光に満ちた春の雨が、まるで人生を全うした故人に送る祝いの雨のように降りかかり、哀しみの場所はしみじみとした祝祭の場所に変わる。それと同じように、瑛介の台詞は、私たちの生きる、ありふれた日常に光をあてる。

 

この映画は、日常の愛おしさを丁寧に描く。

 

その中心で一際好演しているのが、稲垣吾郎演じる主人公・紘の妻・初乃を演じる池脇千鶴だ。彼女の登場において、キャメラはまず、黙々と伝票処理をしている彼女の手元を映す。製炭業を夫婦で営んできた彼女の日常が、年相応の、気取らない手に示しだされる。不思議と女優の手に見えないのは、最低限のメイクで臨んだという自然体の魅力ゆえか。

そしてその手は、隠れるようにそっと煙草を取り出す。だが、その秘めた一服は常時行われているものではなく、つかの間の休息のための特別な儀式なのだということが、一際たっぷりと味わう様子でよくわかる。何事にも無関心な夫と会話した後、夫の飲み残しの酒を、彼が部屋からいなくなった瞬間、耐え切れないように口に流し込むのもまた。彼女の抱えたストレスを慮る以上に、そうやって憂さを晴らす彼女の逞しさがなんとも好ましい。

 

寝る前、仏壇の明かりを消すために互いの身体をまたいでぶつかってもそのままに、とりとめのない会話を続け、そのままの流れで夜の営みに移行する(寸前で邪魔が入りはするが)。風呂上りのタオルを巻いた頭でミカンを食べる。「そんなめんどくさいことしない」と言いながら作る「バカ」の桜でんぶ文字付きの弁当には妻の愛情がたっぷり入っている。その何気ないけれど絶妙な描写は、夫婦がこれまで織り成してきた歴史と、これから続くのだろう未来の2人の姿を想像させ、渋川清彦演じる独り身の同級生・光彦ではないがやっかみ半分で叫びたくなるほどの、穏やかな優しさに満ちている。

 

愛おしい関係は、夫婦間だけではない。地元を生きる38歳の男たちの思い出話と下ネタ混じりのスナックでの会話。酔っ払い3人は海辺で1つの毛布に包まり、おしくらまんじゅうをしながら歌を歌う。だが、学生時代の頃と変わらないようにはしゃぐ彼らも、本当はそれぞれに葛藤がある。その胸の内を見せないようにバカ騒ぎをしようとする、どこか無理のある笑顔と、そのことに気づき、時折心配そうに見つめながらも、何も言わず一緒にはしゃぐ他の2人。

 

そして彼らの間を飄々と歩き回り、くだらないことをよくしゃべり、よく飲み、歌い、稀に、悩む登場人物たちにハッとする言葉を投げかける石橋蓮司演じる光彦の父、いわゆる田舎のおいちゃんの愛すべきキャラクターもまた、映画になくてはならない存在だ。

 

しかしその、最近の日本映画でしばらく見かけなかったような、どこか懐かしい日常の愛おしさを描いた良作で終わらないところが、阪本順治監督の凄さだろう。『団地』(2016)において、ただ、藤山直美はじめ面白すぎる名優たちに笑いがとまらない団地コメディだと思って観ていたら、思わぬところで宇宙まで飛ばされてしまうように。日常にふっと異質な人物が侵入したけれど、何が変わるわけでもないとタカをくくっていたら、突然、今まで見た事もない新しい世界が”くっ”と立ち現れる。

 

そして、彼らの日常に、非日常を持ち込む、元自衛隊員の同級生・瑛介(長谷川)。彼はずっと、スコップを持って何かを掘り起こそうとしている。何に囚われているのか。そこまで執着する必要があるものがそこに眠っているのか。

長谷川は、朝ドラ『まんぷく』の萬平さんですっかり平和な男になってしまったと思いきや、どこかで爆発しそうな危うさを持ってこちら側の”世界”に侵入してくる。まるで『KT』(2002)の、”日陰の存在”に勝手に押しやられた元自衛官佐藤浩市が持つ怒りとやるせなさをそのまま持ち込むように、稲垣演じる主人公含め、市井の人々の無関心を静かに責める。

後半のとあるシークェンスの彼の常軌を逸した表情と、それに近づくキャメラ、音楽の変容は、映画そのものが持つ空気感をガラリと変え、ザラリ、カラリとした独特の空気は、阪本映画ファンを沸き立たせると同時に、なんとなく観ていた観客の心を鷲づかみにすることだろう。

 

先日あるドキュメンタリー映画を観ていた時も思ったのだが、反対側の世界のことを、少しでも自分の身に置き換えて想像することができれば、この世界はもうちょっと生きやすいものになるのかもしれない。それでもそれがなかなかできないのが人間で、つい自分の世界の中だけでいっぱいいっぱいになってしまう。私自身も含めて。

 

一度掘り出された何かは、また同じ場所に埋められる。

「まだ続くんだから」人生は。この世界は。

 半分の月は変わらずそこにある。

瑛介の世界も、紘の世界も、紘の子供の世界も、そして観客である私たちの世界も。

 

変わらない日常は、本当は移ろいやすい。だから余計に愛おしいと思うのである。

 

 

 

 

 

想像で空は飛べるのか(『唐版 風の又三郎』)

織部:「君はもしかしたら、風の又三郎さんじゃありませんか?」

少年(エリカ):「君はだあれ?」

織部:「僕は読者です」

 (『唐版 風の又三郎』(「唐十郎Ⅰ」,ハヤカワ演劇文庫,p.102)

 

 

いつからだろう。舞台を観ていると淋しくて淋しくて、泣きじゃくりそうになるようになったのは。

舞台の向こう側、宇野亞喜良の美術によるカタツムリがゆっくりと蠢き、電話ボックスが輝き、空には月が2つ(もしかしたらオペラグラスで2つに見えていただけ?)。六平直政演じる禍々しく卑猥な〝乱腐〟たちが歌い踊る、あの素晴らしい世界にはどうにも手が届かない。

目の前にあるというのに!

 

まあ、エモーショナルな叫びはこの辺にして、この乱腐という男がまた曲者だ。頭上の剥き出しの、女のソレにも見えるものは、卑猥さと神々しさを併せ持つ。世にも美しい花嫁やカタツムリの妖精が着飾って目の前を通り過ぎたとして、乱腐という男がそこにいる限り、その本質が見え隠れする。人間というのはそもそもがヘンな生き物なのだ。常に何かを隠し、偽り、着飾って生きている。

 

男と女、清純と卑猥、幻想と現実。それをごちゃまぜにしたような世界が、この『唐版 風の又三郎』が描く世界、つまりは誰よりも誠実で純粋な少年・織部の脳内だ。そしてこの物語は、人間というものが蠢くこの世界の、誰もが目をそらし続けている本質を白日の下に晒そうとでもしているのではないか。

 

しかししかし、どうにも唐十郎の畳み掛けるような凄まじい言葉の連なりを浴びていると、完璧な大根役者であるというのに、その言葉はグサグサと私の身体を貫き、感情に任せて叫んでみたい!歌ってみたい!となってしまうから不思議なものだ。

 

それでもこちらは2階の立見席、劇場の片隅に立って、手すりを握りしめ立ち尽くしているしかないのだ。幕が降り、役者たちを見つめながらただただ必死で手を叩き続けるだけ。

 

そんな私に、窪田正孝演じる織部が同化する。岩波文庫版『風の又三郎』を持ち歩く無邪気な少年。本当は月夜の晩に精神病院を抜け出した患者。

「ぼくにはヒコーキの代わりに、こんな薄汚いスリッパしかなかった」(「唐十郎Ⅰ」,ハヤカワ演劇文庫,p.306)

 

柚希礼音演じる又三郎(エリカ)は、冒頭、自由に空を飛ぶ。だが、織部は、どんなに憧れてもスリッパで空を飛ぶ事はできない。だから、羨望の目で彼(彼女)を見上げている。そして言うのだ。

「僕は読者です。(中略)だめですねえ、岩波文庫の十頁にこう書いているじゃありませんか」(同書,p.106)

ああ、彼は私だ。飛べない、私。本の虫で、今は観客の。

そしてきっと、彼は、悠々と空を飛ぶ柚希・又三郎を見つめている観客1人1人だ。

私たちは、スリッパを握り締める読者なのだ。

 

ここで対比できるのは、本を読むことで辛い現実から想像の世界へとつかの間逃げ込むことで生きながらえてきたのだろう織部と、想像の世界の中さえも自由自在に飛びまわって、その世界自体の常識をも、物語そのもの、主人公そのものさえも変えてしまうエリカ(又三郎)の違いだ。いわば観客と、創作する側の決定的な違い。

 

だが、彼女もまた「風の又三郎」という偶像、男たちのミューズ、レコードから流れる懐かしの音楽「エリカの花」のエリカ、つまりはスターという“型”に押し込められた窮屈な存在であるということは、心に留めておくべきことだろう。いわゆる「過去」「古典」というものに押し込められかねない存在であり、エリカの行動は、そこからの離脱願望にもとれる。それはもしかしたら、柚希礼音という元宝塚トップスターである俳優自身を重ねることができるのかもしれない。

 

そんな彼女こと風の又三郎は大胆にも、「ズボンを脱いでシュミーズをちらつかせ(同書,p.194)」る。岩波文庫の十頁の人は女となり歌い踊り、愛する男の肉を食べ、その血を自分の体内に流し込む。男たちの偶像から愛する人の血の通った熱い血潮の女へと変わる。

彼女を前にすると、この物語の男たちは本当に、ただの陳腐で真面目な人間に過ぎない。幻想の”腐った”世界をせめて正しく全うにルールを守って生きようとしているだけ。風間杜夫演じる教授や、六平演じる乱腐たち、そして北村有起哉演じる、エリカに恋焦がれる夜の男もまた。

 

可哀想な織部は、自分の作り上げた想像の世界の住民「風の又三郎」にあっさりと裏切られ、それでも?それだから?彼(彼女)のために全てを捧げようとする。シュミーズの又三郎は、宮沢賢治シェイクスピアも怖くないとばかりに彼の世界のあらゆる物語を壊し、改変していっているのに、彼は彼女を愛してしまう。彼女に捧げた織部の血はどくどくと流れていく。彼の肉体は次第にボロボロになり、身を削れば削るほどなぜかその瞳は活き活きと輝く。死が近づけば近づくほど、その瞳は生気を帯びていく。

それはそうと、ボロボロになっていく窪田正孝というのは、どうしてこうも色気があるのだろう。。

「手を払われ、ここに立って、赤いこの耳をおっ立たせている僕はあんたの何なんです?」(同書,p.194)

 

夢の世界は崩壊し、終幕は近づき、私たちが現実の世界に戻る時間はもうすぐ。現実的には、織部に待ち受けるのは失血死でしかない。

 

それでも彼はエリカのために「又三郎と読者」という偽りの関係性を再び語り、彼女もまたその「ごっこ遊び」に便乗することによって、彼らは架空の翼を手に入れる。現実の世界は幻想の世界に変わり、その世界において、二人は自由を手に入れ、歌いながら飛躍するのである。

 

現実に勝つためには夢を見るしかない。夢を見ることしかできない読者ができることは、スリッパしか持ち合わせていない患者がせめてできることは・・・・。

そんなことを思いながらフラフラと外に出たのだった。

 

 

『唐版 風の又三郎』Bunkamuraシアターコクーン/2019年2月公演にて

 

 

https://www.instagram.com/p/Bucs1gSFVoS/

 

 

 

 

シャボン玉とクルミのお団子(映画『PARKS』と『モンテ』)

さてさて、せめて一ヵ月更新と心に決めた傍から滑りこみセーフの2月の終わり。

今回は先日お江戸に行った話でも。

とはいえ特段予定があったわけではなく、ただひたすら見たい映画を見るためだけの4日間。

それでも珍しくいろんな人と飲んだり話したり(すごく楽しかった)、苦手なエスカレーターを器用なふりして3秒かからずに乗ったり(?)、ご飯食べるの忘れたり、まあなんだかんだフラフラして、最終日は山手線を意図的に乗り過ごし、浅草に逃げて焼豚と胃腸薬と川本三郎さんのエッセイを買ったりした。

 

そういえば、こんなことが。

お洒落なカフェに行こうとしたものの人が多くて入りきらず、なんだか疲れてしまった(朝から映画を観ていたらご飯を食べるのを今日も忘れていたことを思い出したから)。

その先に湖のような場所が見えたのでとりあえずベンチでたそがれようとしたら、そこは井之頭公園。

映画『PARKS』(瀬田なつき監督)だ!あの景色だ!芽郁ちゃんと愛ちゃんが走っていたあの場所だ!

スワンボート大渋滞だ!そうか、ここは吉祥寺だ!

と思うと、心持ち足取りは軽くなる。

スキップは苦手だけど、気持ち2ステップぐらい。

 

カフェのお洒落なコーヒーにはありつけなかったけれど、売店のお団子があればこれ以上の幸せがあるだろうか?醤油味と迷った末、1人クルミ味噌だれの団子に夢中で食らいつく。

 

f:id:naofujiwara7070:20190226022829j:plain

 

そういえばさっき内容も知らないまま飛び込んだ映画『モンテ』(アミール・ナデリ監督)は一体なんだったんだろう。

よくわからないまま観ていたら主人公はひたすら石を打ち砕いていた。

なんでこんなに彼らは石の山に挑み続けるのか。たとえ引き離されても、石と格闘する孤高の叫び声を頼りに集まり、必死に石を打ち砕き続ける家族の軌跡を追い続けると、最後の瞬間で妙に壮大でとてつもない達成感と解放感を味わう。

全ては監督の映画への愛。己を破壊し、己よりも大きなものをも破壊しようとするその、底知れない、狂気のようなエネルギー。

そして、石を打つ震動に揺れる妻の横顔と一筋の涙がなんだかエロティックな感じがしたのは、、気のせいか。

 

そんな私に突如吹きかかるシャボン玉。

井之頭公園にはそんなサービスがあるのか!!!(ない)

 

見ると1人の男性が穏やかにシャボン玉を吹き続けている。

彼は時折売店のお姉さんに自分の描いた絵を見せにいって褒めてもらったりしていて、なんだか楽しそう。

そろそろ帰ろうと橋を渡っているとまた彼がいて、すくっと佇み、シャボン玉を吹いている。

思わずシャボン玉の行方を目で追ってみると、スワンボートの上のカップルが、不思議そうな顔で、快晴の空を舞うシャボン玉を見ているのだった。

 

地獄巡りと名美巡り、またの名を歌謡曲巡り(『ラブホテル』考)

 

山口百恵の「夜へ・・・」(1979)は深い、深い闇へと静かに分け入っていく。

 

少女が女になるその瞬間を、初期の曲の浮き足立った青春の「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(「ひと夏の経験」)から、ど直球な「あなたの○○○が欲しいのです」(「美・サイレント」)ときて、「夜へ…行かせて」と静かに深淵へ。

 

山口百恵の歌を聴いていると、その清純なイメージとは裏腹な、意味深な歌詞にいつもドキリとする。そして誘われる。女の情念の世界。夜の世界。

 

 その世界は、ちあきなおみの「夜を急ぐ人」(1977)が「おいでおいで」と囁く世界に少し似ている。

真っ暗な夜、「ネオンの海」。

 

 

「ネオンの海」を生きるのは、『天使のはらわた 赤い教室』(曽根中生/1979)の名美(水原ゆう紀)。『約束』(斎藤耕一)の岸恵子ショーケンの約束が果たされなかったのと同じ、なんともメロドラマチックな理由で、名美と村木はどしゃぶりの雨の中、すれ違う。やがて再会した2人。

「ここから出るんだ、行こう、俺と一緒に」と投げかける村木に女は答える。

「来る?あなたが」

水溜りに映った彼女。まるで地べたや水が生命を持ったかのように、彼女をじっと見上げている。もう戻れない彼女を、さらなる深淵へと引き込もうとするかのように。

 

 

根津甚八演じる村木は、夏川結衣演じる1994年のどん底の名美を強引に連れ去る(『夜がまた来る』/石井隆)。それはまるで、あの時救えなかった思いを、自分だけ幸せな愛の巣に逃げた後悔を拭い去ろうとするかのようだ。

だが、その結末は、あっけなく、夫の復讐に燃える名美による村木の殺害に終わる。そう、あの時彼女は2人の村木を殺したのだ。『ラブホテル』の村木(寺田農)と、『夜がまた来る』の村木の2人を(正確に言えば『ラブホテル』の村木を『夜がまた来る』の村木が殺し、名美がさらにその村木を殺したわけだが)。

 

名美の地獄巡りは、どこまで続くのだろう。村木はいつ彼女を本当の意味で救えるのだろう。

 

 

しかし、1985年の『ラブホテル』(相米慎二)における名美と村木の物語は、少し、趣きが違う。

美しい。美しいけれども、不思議な映画だ。山口百恵の「夜へ・・・」ともんた&ブラザーズの「赤いアンブレラ」と、童謡「赤い靴」という歌の大混戦という意味でも。

 

行きずりの男女の、すれ違いのSEXから始まり、それぞれの恋人との紆余曲折を経た後、2人はもう一度出会い直し、そして本当の意味ですれ違うための物語。新しく、再生するために。

 

夕美と名乗っていた彼女は、最後に土屋名美として、村木に抱かれる。バラバラに果てるという謎の行為が村木によってなされた最初のホテルに戻って、2人が村木と名美として情を交わし、絶頂の中、村木が名美の名前をしっかりと呼ぶ。そしてキャメラが、名美を組み伏せた自分の姿を鏡越しに見つめた瞬間の村木を捕らえた時、観客は、この甘美な時間がもうすぐ終わることを予感する。名美と村木のメロドラマは、名美の意志とは反対に、終焉へ辿りつこうとしている。

明日も、明後日も、2人の時間はもう訪れないのだ。

 

そして、なんだか祝祭めいた最後の場面。

名美の部屋にある謎めいた不気味な子供の人形が、最後のシークェンスで人間の子供たちに成り代わり増殖したかのように、子供たちが自転車もそっちのけで遊んでいる。いつのまにか、冬が終わり春がきた。

桜が舞う中、「赤いアンブレラ」と村木の元妻が口ずさむ「赤い靴」が同時に流れこむ。別にすれ違う女2人のどこにも赤い要素はない。

 

でももし言えるとしたら、『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や、『台風クラブ』の東京帰りの工藤夕貴という、一つの通過儀礼を経て大人への階段を登った少女たちが揃って終盤に赤い靴を履いていたように、彼女たちもまた、そこに「赤い靴」が流されることによって、(大人だから)もう履かない「赤い靴」をそれぞれに履かされるのではないのか。

 

なぜなら「海底の人魚の国に帰る」と言って海に身を投げようとした時、名美は灯台の上に不自然に、これ見よがしに黒い靴を置き去りにしようとした。新しく前に進むためには、新しい靴に履き替える必要がある。

 

”海底の人魚”と、一度夫の元から”異人さんにつれられて行った”女(冒頭妻がヤクザに襲われ、そのことにショックを受ける村木の姿が描かれる)は、それぞれに赤い靴を履いて、一方は「去りゆく人の靴音 そっと運んでくれる」のを待ち、もう一方はやがて「去りゆく人の足音 ふっとうかんで消え」(共に「赤いアンブレラ」)てしまうから、ようやく1人生きる明日を見据えることができるのである。

 

 

イカイカシャコシャコ(『FRIED DRAGON FISH』岩井俊二)

岩井俊二監督の『FRIED DRAGON FISH』で、深海魚のカラアゲをワイルドに食べる美少年・浅野忠信を観ながら、

もくもくとシャコを剥いて、食べていた。

人も魚も、なんの躊躇もなく殺せる上に、無造作なのにあんなにお洒落な部屋で過ごしちゃってる(壁の時計とか、ステキ)全能感溢れる彼は、水槽に囲まれて、女の子と海を見にいくことを夢見る。

水槽の魚と同じように、彼もまた、部屋というさらに大きな水槽に入れられて、外の世界を窓から見下ろしていたところに、芳本美代子演じるプーが外の空気と共にハツラツと飛び込んでくることで、世界の色はちょっとだけ変わる。

彼が躊躇なく、”ペットじゃなくて僕の友達”の深海魚を捕らえ、台所に向かうように、私もまた、シャコを・・・・。

なんてかっこいいことはなく。

 

小さいシャコ。スーパーで298円の2割引。

放り込むと鍋一杯になったシャコはなんだかグロテスクで、モシャモシャと動き出しそうで、頭とシッポを調理バサミで切るのもなんともなんとも、ムカデと戦っているかのようで。

ん?

ムカデを切断したことはないけれども。

あまりにも小さいものは流しで剥きながら口に入れたり。口に入れたり。

しかし美味。小さいのに濃厚。エビのようでカニのようで。

 

お酒は、冬だから、にごり酒。チビチビとチビチビとチビチビと。

あとは400円が半額で200円になっていたホタルイカの醤油漬け。

前に住んでいた町のものが恋しくて、この前1日と数時間のお休みをもらって買いに走った米味噌の、お味噌汁。

 

半額と、変わった名前の魚に弱い。さらには変わったビジュアルがついてくると、調理方法も考えずに買ってしまう。冷蔵庫にナゾの食材が増える。

あとで流しの前で当惑する。

 

なぜなら煮魚もロクに作れない。あろうことか煮魚なのに、柔らかい白身魚をひっくり返してクズクズにした上にフライパンごと黒焦げにしておじゃんにすることもある。

 

おでんは寝かせたら寝かせるほど美味しくなると聞いて、油揚げともちきんを山ほど入れて長時間煮込み続けたら、当然の事ながら、汁がなくなった。

 

インスタ映えする至れり尽くせりのおしゃれキャンプ(グランピング?)なんて行こうものなら、用意された具材を入れて挟んで焼けばいいはずの朝ごはんのホットサンドが焼けたのかわからなくて、本当に見事な黒焦げ状態。墨状態なのに、ホットサンドメーカーのブランド名のみが浮き出る始末。

f:id:naofujiwara7070:20181228212952j:plain

 

  焦がしてばっかりじゃないか。

 

 

 

 

 

 

死神のようなバクと、確かなものなどない、この世界の話(『寝ても覚めても』)

映画『寝ても覚めても』(濱口竜介監督)。

 

「俺の代わりはちゃんといるから大丈夫」

麦(バク)はそういった。突然現われ、消え、しばらくしてまた現われ、唐田えりか演じるヒロイン・朝子をかっさらっていく彼は、まるで宇宙人のようだった。黒沢清監督のドラマ『予兆』でそれこそ地球人ではない”侵略者”を演じていた東出昌大は、あの佇まいのせいか、本当に宇宙人がよく似合う。

 

これは本当に恋愛映画なのだろうか。恋愛映画として観ると、それはあまりにも無機質で、違和感ばかりが生まれていく(それがワカモノの恋愛というのなら、私がわからないだけかもしれないが)。だが、あえて唐田えりか東出昌大といういろんな意味で”透明感”(何色にも染まる系)のある俳優であるところの2人がキャスティングされていることからも、ここではあえて身体性の欠如に関する物事をひとまず除外して考える。

 

確かなものなどなにもない、いいようにも悪いようにも、簡単にコロコロ変わってしまう世界の中で、せめてちゃんと立っていることができたら。

この映画は、そんな救いのような、願いのような映画なのだと思う。

 

麦は何者なんだろう。

前述した台詞通りの「俺の代わり」。それは俳優になった麦の芸能界での代わりという言葉通りの意味であると共に、朝子にとっての彼の代わり、彼の代用品として現われたのが、彼と瓜二つの顔を持つ男、関西弁の平凡な会社員、丸子亮平だったことも暗示している。

だが、その代用品が確かな存在に変わることもある。震災という、確かだったはずのものが全て崩れてしまう、不条理な悲劇をただ受け入れるしかない自らの無力さに震えるしかなかった、未曾有の出来事に遭遇したことによって。

確かではなくなってしまった世界に遭遇した彼女は、目の前で真っ直ぐに彼女を見つめる、「誰かに似た人」ではない、丸尾亮平という人を、確かに、愛した。

 

また、こうとも言える。麦は、突然出現し、風のように姿を消し、彼女が望むことによってまた現われる宇宙人。

それはまるで、朝子を”死”へと誘う、死神だ。

伊藤沙莉が初めて会った時から異常に警戒し、朝子から麦をなるだけ遠ざけることからわかるように。

 

朝子は2度、彼を手招きする。

1度目は俳優になった麦を乗せた車に向かって、「バイバーイ」と叫び手を大きく振る。

2度目は、幻想の彼が、引越し準備をしている朝子の家のチャイムを鳴らす直前。彼女は何気なく猫を抱き上げ、その前足を持ち、手を振る仕草をさせる。

それを合図に、麦は「だって、朝ちゃんが呼んだんだよ」と言いながら現われるのだ。奇妙なことに、彼女は、お別れの仕草をすることで、”それ”を招き入れてしまったのである。

 

「なんで今なん?」と言いながらも、麦と同じく白い服を着た朝子は無抵抗に彼の手をとり、夢遊病者のように、スマホという、彼女の今までの交友関係を繋ぐ手段を捨て、北のほうへと、高い堤防によって見えない海に向かって、麦と共に疾走する。

今が夢なのか、亮平と一緒にいた今までが夢だったのか。

麦は見なかった堤防の向こうの海を1人で眺める朝子の表情は、青白く、険しい。

 

この映画は、直接的には描かれていない”死”の予兆、”死”の雰囲気で溢れている。

2人の逃避行が、生の世界を捨てた朝子が死の世界へ向かっているかのように見えることだけでなく。

震災。

そして、ラジオは同じように流れていて、田中美佐子は同じように青春時代の話を繰り返しているのに、優しそうな笑顔だけをそのままに、変わり果てた姿で横たわっている渡辺大知。

 

少しの月日が経っただけなのに、

同じ顔だけど違う人、同じ場所だけど違う場所、同じ人だけど違う姿、違う名前。

こんなにも違う。

 

まるでパラレルワールドにいるかのような。

夢なら、あるいは夢じゃなかったら、どんなにいいか。

 

そんな不条理でアンバランスな世界の中で、

自分たちの気持ちだけは変わらない、 なんてことはない。

朝子は、ボランティアに行く理由を聞かれ、

「間違いではないことをしたかった、その時は」

と答える。

確かなことなどわからない。なにが正しくてなにが間違っているのかも。

 

何かがあれば瞬く間に彼らを家ごと飲み込んでしまいそうな”天の川”(天野川?)は、「汚いけどきれい」で、彼らは、そんな世界ごと愛すしかないのだ。何もかも確信することができない自分たち自身を含めて。

 

 

 

「道」な一日(『日日是好日』・『顔たち、ところどころ』)

最近、仕事の関係で引越しをした。まだ慣れない街を自転車で疾走する。最寄の無人駅は、たまに地域の人たちが集まる立ち飲み食堂に変化するそうで、その次の日なのだろう、木製のベンチには酔っ払いの走り書きのような落書きと柿ピーが詰まっていた。会ったことのないおじさんたちの青春ごっこを想像する。そしてしばらく電車に揺られて辿りつく、まだ慣れない、でも確実に好きになりそうな映画館。

そこで観た映画2本。

大森立嗣監督の『日日是好日』と、映画監督、アニエス・ヴァルダとアーティスト、JRによるドキュメンタリー映画顔たち、ところどころ』。

JRのあの「目」をどこかで見たと思っていたら、ワタリウム美術館のあの「目」、あの「顔」だったのか。

 

日日是好日』でこんな場面がある。

海岸で、大学を卒業する前の黒木華多部未華子が将来のことを語り合っている。黒木華が海辺の際まで走り、多部に向かって「ザンパーノ!」(多分・・・)と叫び、手にしていた細い流木を使っておどけてみせる。コミカルでささやかな、可愛らしいダンス。

 

そう、フェリーニの「道」。海と焚き火をじっと見つめるインノセントな存在、ジェルソミーナと、彼女を二束三文で買った、粗野で乱暴な旅芸人、ザンパノの切ない物語。『道』が海の映画であるように、『道』の話で始まり『道』の話で終わる『日日是好日』もまた、海の映画でもある。

 

20代の黒木華はこの時、ジェルソミーナの側にいる。小さい頃わからなかった映画が今見返すとなんだかわかる、なんだか涙が出ると彼女は言う。自分の存在意義がわからない、模索しているジェルソミーナとして、海の際で、友人多部未華子に呼びかける。

 

30代、父親を失った彼女は、また海辺に立っている。今度は海の際にいるのは鶴見慎吾演じる父親であり、黒木華は海辺にいて、父親を見て叫ぶ。「お父さん!」と。

この時の黒木華は、自分にとっての亡きジェルソミーナの存在の大きさを今になって知り、海辺で慟哭するザンパノの側にいるのだ。自分にとっての父親の存在の大きさを亡くなった後に初めて知る。

 

だから、この映画は、茶道と『道』の映画であると言えるのだ。「これを知らない人生なんてすごくもったいない」。うつろう季節、その小さな変化は、ただぼんやりと日常を過ごしていたら見逃してしまいがちなもの。そしてそのなんという事もない日常は、毎日同じようにはできていない。その全てが一期一会であり、人間の生と死もまた同じ。

 

そこに、茶道の先生役を演じた樹木希林自身の死が重なってくる。

映画の中の2018年、彼女は88歳という設定で生きていて、今年と同じ茶器が使える12年後、「私100歳だわ」と言って笑う。80歳の希林さんにも、90歳の希林さんにも、私たちはもう会うことができない。

 

そして、続く『顔たち、ところどころ』。

これは『道』とは全く関係がないのだが、ある意味『道』の映画だった。カメラを模した車に乗って、54歳差の2人は旅をする。サングラスを決して外さない長身のJRと、小さくて丸い、白とオレンジのポワンとした不思議な髪型のアニエス・ヴァルダのデコボココンビは、勝手な話だが、ザンパノとジェルソミーナのフォルムと重なる。

 デコボコ道を”カメラ”は進み、たくさんの人々の顔が撮られていく。そこで立ち現れる、その街を生きる人々の人生、そして”ヌーヴェルヴァーグの祖母”とも言われるアニエス・ヴァルダ自身の顔、そして人生。

 

彼らが見つめる海岸。そびえ立つ不思議な岩に寝そべらせた、懐かしい人の肖像は、海の波によって一晩で姿を消してしまう。それを切なげに「しかたないわ」と見つめるヴァルダ。移ろいやすいものだから、人はいずれ死に、自分も死にゆくものだから、それを恐れはしないと。

 

そして、1つの期待と”彼らしい”といえば彼らしい、ある人物の裏切りを前に落ち込むヴァルダと、彼女を慰めるJR。JRを見つめるヴァルダのその瞳の先には、もしかしたら若かりし頃のゴダールが重なっていたのかもしれない。

 

帰りがけ、古書店に寄って、なんとなく見つけた淀川長治さんの本を買う。 淀川さんと言えば、『道』の解説で、ザンパノが殺してしまう、調子のいい綱渡りの男、イル・マット(”狂人”という意味らしい)のことを「神」のような存在であると述べていた。私は「神」であると同時に、ジェルソミーナもまた、哀しいことに精神を病み発狂し同じく”狂人”になるわけで、ジェルソミーナにとっての「鏡」の意味を持っているのではないかなと思う。彼らは、同じ記号を持った人物であり、2人ともザンパノのために死ぬ運命にあった。

イル・マットは、なんだか色っぽくて切なくて、好き。

 

そんなことを、つらつら考えつつ。

若干空気の抜けかけた自転車がプシューッと言って、帰り着いてしまった。